2017年12月8日 チャペルメッセージ

2017年6・9月のメッセージ

「ルターが愛した聖句」高井保雄 JELC羽村協会牧師

出エジプト記 20章3節
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
ルターはその63年の生涯の中で大変多くの本を書きましたが、その中で最も良く知られているのは、彼の小教理問答書だろうと思います。ルーテル教会では、洗礼を受ける人は必ずこれを学ぶことになっているので、今でも世界中の国の国語で何種類も翻訳、出版されています。ルター自身、数ある著作の中で教理問答を自分の真正の書と誇っています。ルターは「教理問答は、全聖書の簡潔な精髄であり、要約である」と言っています。「教理問答を完璧に理解すれば、全聖書が分かったと同じだ」とルターは言っているのです。その教理問答を、彼は、十戒、使徒信条、主の祈り、洗礼、聖餐の5つの部門に分けて書いています。ルターの著作の特徴の一つは、一番大事なものを一番最初に持ってくるという点なのですが、そこから、ルターは5部門の中で十戒を最も重視している事が分かります。そのことは、彼の教理問答における十戒の説明部分のボリュームの大きさからも分かります。十戒の説明だけで、教理問答の半分近くを閉めているのです。教理問答が十戒の解説から始まるのは別に不思議じゃないと思う人がいるかも知れませんが、ルター以前のカトリック教会や、ルター以後の改革派の教理問答では、使徒信条の解説から始まっています。実は、大方の教理問答がそうなっていて、むしろルターだけが十戒を一番最初に置いているのです。これは極めてユニークな観点だと言わなければなりません。さて、ルターがそれほどに、重視している十戒ですが、その内容は更に、ユニークです。ルターはこう言っています。
思うに、次のことは、確かである。即ち、十戒を完全に理解しているものは、聖書全体に精通しているに相違ない。
聖書全体を理解するのは、誰にとってもとても大変です。しかしルターによれば、十戒を完全に理解する者は聖書全体に精通するのですから、私達もまず十戒に取り組むことが大切になります。そこで十戒の部分を読んで行きますと、ルターは更に興味深いことを言っています。十戒の第一戒についてルターはこう言います。
第一戒が最も重要で、この戒めが守られるならば、他の戒めは、すべてこれに従って、おのずと満たされる。
そうすると、ルターによれば、聖書全体に精通するためには、十戒を完全に理解すれば良い。その十戒の中で第一戒が守られるなら、他の全てはおのずと満たされる、ということですから、早い話が、全聖書に精通するためには、十戒の第一戒を完全に我がものとすれば良いのだということになるわけです。現代では、幾ら時間があっても足りないほど忙しい時代に、私達は生きています。そういう私達にとって、このルターの教えは極めて貴重な、そして有益なものと言えます。たった一つの聖書の言葉について、完全にそれを我がものにすることが出来れば、全聖書の神髄が分かると言うのですから、これに取り組まない手はありません。他ならないルター自身が、この十戒の第一戒に命がけで取り組んだのです。そのために、ルターはそれまでの自分の全てを投げ打って修道院に入るわけです。その動機は、「私は、如何にして、恵みの神を獲得できるか」というものだと言われています。「神を獲得する」「神を我がものとする」「神を持つ」には、如何にしてそれが可能かと、ルターは8年間、修道院生活を通して必死で十戒の第一戒に取り組んだのです。その十戒の第一戒とは何かと言うと、それが先程読んで頂いた、出エジプト20:3の
あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。(出エジプト20章3節)
というものです。この第一戒について、ルターは修道院の生活の中で昼も夜も思いをめぐらしていたにちがいありません。「神以外のものを神としてはならない」とはどういうことか、「神を神とする」とはどういうことか。「自分の神を持つ」とはどういうことか。この問いに対してルターは小教理問答で次のように答を述べています。
第一戒 私はあなたの神、主である。あなたは私のほかに何ものをも神としてはならない。これは何か。
答  私達は、何ものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです。
実は、私は最初この問答を読んだ時に、この答の意味が良く分かりませんでした。「神を神とするとはどういうことか」「神以外のものを神としないとはどういうことか」という問いに対して、「私達は、何ものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです。」というのがなぜ答になるのか分かりませんでした。どこかちぐはぐな印象があるのです。ルターにとって、十戒の第一戒についての問答は教理問答の中で最も大切な問いと答の部分であるはずです。その最も大切な答のはずの「私達は、何ものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです。」という言葉が、私には大きな謎で心に掛かかっていました。その疑問が、私にとっては、ルターについての学びをすることのきっかけとなりました。このことを考えるためには、ルターの信仰の道筋をたどることが必要です。修道院に入った当初のルターにとって、「神を神とする」とは、「何ものにもまして、神を恐れる」ことでありました。神は恐るべき最後の審判者であり、容赦なく自分のような罪人を裁く方であり、その裁き主の示す峻厳な正義こそ「神の義」であると捉えていました。この全ての人の罪をどこまでも追究し、徹底的に裁く神を、ルターは遂に憎むまでになったと告白しています。一時は絶望的になっていたルターでしたが、ある時「神の義」をそれまでのように神の裁きとして捉えるのではなく、それまでとは全く別の、新たな「神の義」として捉える事が出来たと言うのです。十戒に代表される律法を行うことではなく、神が、律法を満たすことができない罪人をキリストの十字架を通して受容される。罪人以外の何ものでもない人間は、そのことを信じて受け容れることによってのみ「義」とされる。その体験をルター自らがするわけです。その時、「天国の門が開いたように思えた」と彼は後になって告白しています。ルターの言う「信仰義認」とは、そのことを指しています。それ以後のルターは、このキリストが罪人である自分の内で共に働いて下さるという、キリストへの信頼の内に生きる人となったわけです。こうして、ルターの生涯をたどってみると、初めは「神を恐れ」、やがて「神を愛し」、そして遂に「内なるキリストに信頼」することができた。そういうルターの生涯にわたる神への思い、即ち信仰の発展が、この大変短い「神を恐れ、愛し、信頼する」という言葉に凝縮されているのではないかということに、私は思い至った次第です。たった一言で、ルターは、自分の生涯にわたる神観、神への信仰を語っている。それが、この「私達は、何ものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです。」という、ルターの答の持つ意味ではないかと、今、思っています。
ルターがその全存在をかけて十戒の第一戒の答を書いたように、私達も自分なりの生き方を通して、この第一戒の答を書くために、思いを巡らす者でありたいと思うのです。

「ルターと落雷体験」江口 再起 教授

マタイによる福音書 5章37節
あなたがたは、「然り、然り」「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。
今年2017年は、宗教改革500年の年に当たっています。宗教改革とは、あのドイツのマルティン・ルターから始まった宗教改革運動のことです。すでに中高の歴史の時間に習ったことがあるかと思います。私は大学でキリスト教を教えていますが、専門をもう少し詳しく言うと、そのマルティン・ルターの神学ということになります。というわけで、今日もルターについて少しお話をしたいと思います。今日のテーマは、そのルターが22才の若き日に体験した「落雷体験」についてです。
ルターは1483年、銅山で働く鉱夫の息子として生まれました。ところが、この父親は大した人で人一倍努力をし、もともとはただの鉱夫だったのですか、後々にはどの銅山の所有者にまでなるのです。中世末期の、いわば初期資本家と言ってもよいでしょう。そういう父親の下に育てられたので、ルターは幼い頃から、めぐまれた教育を受けることができました。父は息子の将来を期待していました。当時の教育とはラテン語学校といって、ラテン語を幼い時から徹底して学ぶのです。もちろん500年前のことですから、学校にいる子供はごく少数で、いわばエリートでした。今から考えると体罰が当たり前のことでしたが、少年ルターはしっかり勉強し、やがてドイツでも有数のエルフルト大学に入学します。18才のときです。エリートとして未来が約束された存在でした。さて、エルフルト大学で4年間、いわば大学での前半の基礎を積み、次にいよいよ専門の学部に進級した直後のことです。彼は法学を専門とすることになっていましたが、1505年の7月2日のことです。22才の青年ルターが親元のマンフェルトから大学のあるエルフトに一人で帰る途中、当時のことですから徒歩で旅をしていたのですが、シュトッテンハイムという村のはずれの畑の中を歩いていると、突然、落雷にあうのです。畑の真中での落雷。ルターは死の恐怖を感じました。恐怖のあまり彼は神様に命ごいをします。当時の人々は、神様に願い事をするとき、神様に直接にではなく、自分の守護聖人に祈るのです。死の恐怖の中で、ルターはこう呼びました。「聖アンナ様、お助け下さい。もし助かったら修道士になって一生涯を神様に捧げます!」・・・・やがて雷はおさまりました。さて、ルターはその後どうしたでしょうか。現代人である我々ならばヤレヤレ助かったとホッとして、じき神様への命ごいもすぐ忘れてしまうでしょう。ところが、・・・・ルターはそうではなかったのです。本当にその二週間後、彼は大学も中退し、修道院に入ってしまったのです。親はガッカリしました、と言うよりカンカンに怒りました。将来、りっぱに大学を卒業して、この世で出世をしてということを期待していた息子が、突然、学校をやめ、何かよくわからない修道院に入ると言い出し、本当にそれを実行してしまったからです。一体、この突然の進路変更をどう考えたらよいのでしょうか。ルターは今から500年も前の中世の人ですから、現代人に比べ神様への信仰心も、もっとリアルなものだったのでしょう。・・・しかし、もともとルターは戸津別、信仰熱心というわけでもなく、ごく普通の青年だったのです。ではなぜ、これほど大胆な行動をとったのでしょうか。いろいろな事を推測し考えることができますが、今日、私たちかなり無責任に言葉を使っています。その場しのぎの言葉を言ったり、相手に合わせて自分が本当にそう思っていることとは逆のことを平気で口に出すことも、しばしばです。あるいは今日、それは社会問題の一つですが、ネットの世界で匿名であるということは、それをいい事に、あることないこと人の悪口や人をおとしめることを平気で書き込み、それを楽しんでいるということです。匿名であるということは、それを書いたり言ったりしても、それが誰だかわかりませんから、後で責任をとる責任を取る必要がないのです。つまり、自分の言葉に責任をもたなくていいわけです。そうしておいて陰で自分一人ニヤニヤ笑っているのですから、卑怯極まりないですが、それが横行している社会です。言葉が軽いというか、人間そのものが軽い薄っぺらいという感じがします。しかし一体、言葉とは何でしょうか。私の口から出てくる言葉は、そんなに薄っぺらいものなのでしょうか。ルターがシュトッテンハイムの畑の真中で、神様に助けを叫んだとき、周りには誰もいなかったのです。つまり、誰も聞いていないのですから、そんな言葉など、あとでイロイロ考える必要もない…と、今の私たちなら考えています。・・・しかし、もっと考えてみれば誰も聞いていない言葉などあるのでしょうか。たとえ周りに誰もいないとしても、その言葉を口に出した「自分」がいる。私自身は、私が口に出した言葉を確かに聞いているのです。そして、キリスト教の立場から言えば私だけでなく、神様が聞いているのです。昔の人なら、「お天とう様が見ている」と言ったでしょう。私が口にする言葉は、決してそんなに軽くはないのです。いわば、その人の人格そのものの現れなのです。ですから、自分の言葉には責任をもつ必要があります。他の人が聞いている聞いていないではなく、自分の言葉は重いのです。ある時、イエス・キリストは
あなた方は「然り、然り」「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。(マタイによる福音書5章37節)
と言われました。言葉というものが、一言一言、その人の心の一番大切なところから出てきた責任ある大事なものである、ということでしょう。ということでしょう。ルターのあのシュトッテンハイム村の畑の真中での、叫びもそうでした。言葉は大切なものなのです。言葉というものが本当に大切なものであるという事、それゆえ自分の言葉には責任を持たなければならないという事を、今日はルターの落雷経験から学びました。そして、最後に一言『自分の言葉に責任を持つ』という事が、実は自分が自分自身に自信もつということなのです。

前のページに戻る