2016年7月1日 チャペルメッセージ

2016年7月のメッセージ

ルーテル学院大学では、授業のある日は毎日、お昼の礼拝が行われています。参加は自由ですが、授業の合間にほっと一息、心を静めるひとときになっています。ここでは、礼拝メッセージの一部をご紹介します。

「人生の神秘」ケネス・デール 名誉教授

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ヨブ記 42章1~6節

ヨブは主に答えて言った。
あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。
人生の多くの神秘的体験、生きる意味の神秘、神の存在の神秘—むしろそういう神秘に、年をとるにつれて、興味が深くなります。沢山の不思議な現象の中から2,3取り上げてみましょう。

自然の現象、光をまず考えましょう。光はなんですか? 光は最も小さな波でしょう。光波です。しかし、光の波そのものは明るいでしょうか? 光波が見えますか? そうではないです。光そのものは見えません。太陽は見えますが、太陽と地球の間、その中間は真っ暗です。しかし、光の波が当たるものが明るくなります。光波にぶつけられた対象はちゃんと見えます。どういうふうに光の波が物を明るくすることができるでしょうか?それは私にとって大変神秘的な現象です。

もう一つの波現象を見てみましょうー音です。音はなんですかと聞くと、それは拍手ですと言ったり、それはピアノですと言ったりしますが、実際にはそうではなのです。拍手とピアノは音波をつくって送るものにすぎない。音波そのものには音はありません。人がいないところに音はありません。音は耳にあります。いや、脳とつながる耳にある神経がなければ音はありません。音は脳から来ます。ピアノからではないのです。

もう一つの現象、光と音より不思議なのは引力です。(ボールを持ちながら)これを離したら、どちらの方向に行くでしょうか?下に落ちるのは当然だと思うでしょうが、宇宙船にいるなら、下に行かないでしょう。宇宙船にいるなら、人も下に到着しない。飛び回るのです。引力はあそこにないからです。不思議な全然見えない力ですが、引力なしに、宇宙全外は不安定になり惑星と星が飛び回る。山と海と自分の体さえも無茶苦茶に、あちこちに飛ぶでしょう。引力のおかげで地球にある全てのものは安定しています。
最近、理学者達が引力はやはり最も小さな波であると発見しましたー考えられないほど強い力のある全然見えない波です。引力は畏敬すべき神秘です。

さて、一番神秘的なものは神の存在だと私は感じます。神はどんな性格をもつかと聞きますと、それぞれの宗教は答えがあるでしょう。
キリスト教の多くの信条、例えば聖餐式の中に唱える使徒信条をもっています。それぞれの信条に神を説明しようとする文章があります。そういうふうに神を定義しようとしますが、定義できる神は本当の神ではないと言わなければならないでしょう。むしろ例えをもって神の存在を指摘するしかできないのではないでしょうか?
例えば聖書の神は光、キリストは世の光であると述べ、神を光に例えています。英語で「ENLIGHTEN」という言葉があります。もともとの「light」(光)の動詞形です。その意味は光を照らす、人に何かを分からせることです。愛なる神を受け入れると、人生の最終的な意味が、「enlighten」されて、その意味が分かってきます。神は光です。

「眩しすぎるぜ!!」河田 優 チャプレン

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コヘレトの言葉 11章7節

光は快く、太陽を見るのは楽しい。
礼拝は「祭り」だ!!これは正しいことです。
日本でも外国でも、信仰する神様が与えてくださる恵みに感謝し、祝うことを祭りとしています。キリスト教の礼拝でも、イエスの復活したイースターは復活「祭」。イエスが生まれたクリスマスは降誕「祭」と呼んで礼拝しています。つまり、礼拝は祭りなのです。だからルーテルの学生として正しく夏祭りを過ごすには、まず礼拝に出なければならないということになります。

さて、今年の夏祭りのテーマは「光」です。そして昼の礼拝に与えられた聖書箇所は先ほど読んでいただいたコヘレトの言葉11章7節でした。もう一度お読みします。
「光は快く、太陽を見るのは楽しい。」

この与えられた聖書箇所で何を話そうかと悩みました。確かに太陽は素晴らしい恩恵を私たちに与えています。光や熱。これらのものが地球上の私たちの命を支えている。だから太陽は、神様にもなぞらえられます。聖書でもマラキ書には救い主到来を預言する言葉として、「義の太陽が昇る」とも書いています。
だからと言って、太陽を見てもいいんでしょうか?私は小学校の理科の時間に習いました。「太陽を直接見てはいけません。」だから聖書はこう書いているけど、直接、太陽を見ない方がいいと思う。目を痛めてしまいます。

では、太陽の存在を私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。それは直接、太陽を見なくても、太陽の光に照らされ明るくなった世界を見て、私たちは「ああ、日が昇ったな」とか、「今は真昼時だな」とか、太陽があるのを知ることができる。つまり、太陽の光に映し出されるものを通して、太陽が確かに今昇っているということを誰でも知ることはできるのです。
神様も同じように言えるかもしれません。神様を直接見ることはできないでしょうし、聖書には直接、神の姿を見たら死んでしまうようなことも書いてあります。太陽を見るどころではない。太陽は眩しすぎて見えないが、神様も圧倒的に正しいお方なので罪ある私たちが直接見ることは出来ないのです。でも太陽が光で照らし、その存在を示すように、神様もその光をもって様々な物を照らします。人と人との出会いに神様を感じたりする。その時に掛けられた言葉に励まされた。神様を感じたりする。自然と出会う。そこの映しだされた壮大さに神様を感じたりする。あらゆるものを通して神様を感じることができる。この神様が放つ光を「愛」という言葉に置き換えてもいいでしょう。

私たちは、時々、神様に会いたい、神の姿を見たいと望みます。特に闇の中で過ごすように、悲しみや寂しさに囚われている時には神様をこの目で見たいと望むのです。しかし、その姿を直接この目で見ることはできません。でも神様はあなたのそばにいます。太陽がその光によってすべての物を浮き上がらせ、太陽の存在を示すように、神様はすべてのものを愛されることによって、ご自身の存在を私たちに教えます。

神様のまぶしすぎる愛は、あらゆるものを照らします。今日の一日は、あの人、この人、あの出来事、この出来事、すべてに神様の愛を見つける夏祭りとしてください。

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