2017年6月9日 チャペルメッセージ

「ルターの愛した聖句」宮本新 神学校専任講師

ヨハネによる福音書 1章13節
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

教会などでは時折、会話の中で、「あの人は信仰をもっている」とか、「私は神や霊のようなものを信じる」とか、「信じない」といったります。人によっては、「よくわからないけれど、霊感がある方だと思う」とか、そんなことをいうかもしれません。それはそれとして、まったく違う角度から信仰について語っているのがルターでした。今日は宗教改革500年記念礼拝のひとつということですから、このルターと信仰にしぼって、お話したいと思います。

はじめに、ルターが信仰について述べている箇所があるので、紹介します。信仰についてたくさんのことを述べ、またたくさんの人達がルターの信仰について研究していますが、その中でもとりわけ私自身が、はっとさせられたところを皆さんにお分かちしたいと思います。ローマの信徒への手紙の序文で書かれた一部です。
「信仰とは、ある人々が信仰だと思い込んでいるような、人間の妄想や夢ではない。彼らは、生活の改善や善い行いがその結果として起こらないのを見ていて、それから信仰について多くを聞き、語ることができるようになると、誤りに陥って、こう言いだすのである。「信仰では十分ではない。正しい救われた者となるには、行いがなくてはならない」などと・・・彼らは福音を聞いても、そこからこぼれ落ち、各々自分の力で、『私は信じている』というひとつの思いを作り出す。彼らはそれを正しい信仰だと思い込むのである・・・しかし、信仰は私たちのうちにおける神の働きである。この働きが私たちを変え、私たちを神によって新しく生み出し、古いアダムを殺し、心、勇気、感覚およびあらゆる能力をもつ、まったく別の人へと私たちを造り変え、聖霊をもたらす・・・信仰とは神の恵みに対する、生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死んでもよいというほどの確信である・・・」(ルター『ロマ書序文』1522)。
私はこの文書を目にしたとき、おもわず二度見しました。いや、本当は二度見どころか、三度見、四度見て、「そうだったかなぁ」と自分の信仰についての考えを思い返す機会がありました。いろいろ考えましたが、こんなことを書くルターにとって、伝えたいことははっきりしていたと思います。自分の魂を支えるもの、命の根っこにあるもの、生きている意味がわからない、どうしていいかわからない、どこからやり直したらいいのかわからない、でも、「大丈夫」ということでした。気休めでいっているのでも、やせがまんでいっているのでもありません。本当に大丈夫、と思うから書いているのでしょう。
この大丈夫という言葉は、どこからくるのでしょう。たとえ未来が見えなくても、それでも希望をもって明日をむかえようとする勇気は、どこから来るのでしょうか。自分で仕方がない、もう無理だと思っていても、それでも思いを切り換え、よしもう一度やってもみようと、自分を奮い立たせる元気はどこから来るのでしょうか。若き日のルターは、こう言われていたのです。「そのために、もっとがんばりなさい。失敗するな。反省しなさい。そして努力しなさい。そうしたら、神の恵みはあなたを後押ししてくれるでしょう」。そう思うこともありそうですが、ルターははっきりと区別します。それが引用の冒頭の言葉になります。
「信仰とは、ある人々が信仰だと思い込んでいるような、人間の妄想や夢ではない」。
もはやその「信仰」とは、信仰を持っているとか持っていないとか、どこそこの信者とか、何年教会に通ったとか、どれだけ聖書を読んだとか、そういうレベルのことではなくて、ぶっつけ本番で、ありのままをいっているように思います。私たちがこうして生きているという事実は、何によって支えられ、何によって「本当によく生きた」といえるのか、人間の成り立ちを問う言葉になります。ある人は生んでくれた親を想うかもしれません。自分の恵まれた環境や親切な周囲の人々の存在に思いが至るかもしれません。自分に与えられた能力や才能に気付いたり、あるいは人一倍努力をしたり、苦労をした自分の足跡を思うものかもしれません。自分の心や意志を見つめ、性格や人格をどうにかしたいと思うことだってあるでしょう。全部ありえそうですが、ルターはそれらとは別のものがあることに気がついていたのだと思います。それがルターが引用し、今日朗読したヨハネ福音書でした。
「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」
ためしに、自分にむけてこの言葉をいってみてください。自分のしていること、歩んでいる道、今置かれている境遇で、自分に語りかえられたと想像してみてください。ひとつの実験みたいなものです。血によってでもなく、肉の欲によってでもなく、だれかれの欲によってでもなく、神によって生まれたものがある。そんな風に考えたことがあるでしょうか。そんなものが、自分に、私たちの世界にあると言いえるものでしょうか。ルターはこれに出会ったのではないでしょうか。そしてそれは、だれにでもある、というのが聖書のメッセージです。私たちは肉体をもって生まれ、人びとに囲まれ、よいことも悪いことも経験します。しんどいことがあります。つらいことがあります。ついついずるいことを考えたり、調子のいいことばかりいったりすることもあるかもしれません。そうして自分を生かしてみると、この世界は自分や人々の願いや思惑だけで動いているかのように振る舞うときがあります。そこでは、自分の人生は自分で切り開き、夢は描くもの、希望はつかむもの、と子どもから大人まで信じて切っているのかもしれません。それをきれいに切り分けて捨て去る必要があるのか、できるものなのか、私にもわかりません。しかし大事なところで、心のどこかでつじつまがあわなくなる思いをすることがあります。違和感のようなものです。それをごまかすこともできます。素通りもできます。でもどちらもしなくて済む、といのが、この聖句です。

「生まれ、造られ、与えられる」。そこから見つめなおしてみるのです。それが聖書の視点だと私は思います。今日の讃美歌の作者水野源三も、ここから歩みなおした一人だったのではないでしょうか。「なんのために生きるのわからないとき」、「行き先がわからなくなる道を進むとき」、「だれかと共に生きる理由を見失ったとき」、自分に与えられている言葉があることに気が付いたのではないでしょうか。人は何をするか、何をしたいか以前に、何によって生まれ、だれに造られたものであるかをきちんと知ることは大切なことのように思います。何がほしいのか、何になりたいのか以上に、自分に何が与えられていて、何を託せられているかを知っておくことは、時に大切な一歩を踏み出す力になるのだと思います。信仰とはそのようなことを考えさせる言葉です。
主が共におられるとは、これに気が付くことだと思います。これにひとり手をあわせ、待ち望むことだと思います。それはだれにでもある。わたしにも、あなたにも。そんな証しを伝えてくれている讃美歌だと思い、ご一緒に歌いました。だから今日も生きていきたいと思います。ひとりではだめです。主と共に、隣人と共にです。アーメン。

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