2017年10月10日 チャペルメッセージ

「ルターと落雷体験」江口再起 教授

マタイによる福音書 5章37節
あなたがたは、「然り、然り」「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。
今年2017年は、宗教改革500年の年に当たっています。宗教改革とは、あのドイツのマルティン・ルターから始まった宗教改革運動のことです。すでに中高の歴史の時間に習ったことがあるかと思います。私は大学でキリスト教を教えていますが、専門をもう少し詳しく言うと、そのマルティン・ルターの神学ということになります。というわけで、今日もルターについて少しお話をしたいと思います。今日のテーマは、そのルターが22才の若き日に体験した「落雷体験」についてです。
ルターは1483年、銅山で働く鉱夫の息子として生まれました。ところが、この父親は大した人で人一倍努力をし、もともとはただの鉱夫だったのですか、後々にはどの銅山の所有者にまでなるのです。中世末期の、いわば初期資本家と言ってもよいでしょう。そういう父親の下に育てられたので、ルターは幼い頃から、めぐまれた教育を受けることができました。父は息子の将来を期待していました。当時の教育とはラテン語学校といって、ラテン語を幼い時から徹底して学ぶのです。もちろん500年前のことですから、学校にいる子供はごく少数で、いわばエリートでした。今から考えると体罰が当たり前のことでしたが、少年ルターはしっかり勉強し、やがてドイツでも有数のエルフルト大学に入学します。18才のときです。エリートとして未来が約束された存在でした。さて、エルフルト大学で4年間、いわば大学での前半の基礎を積み、次にいよいよ専門の学部に進級した直後のことです。彼は法学を専門とすることになっていましたが、1505年の7月2日のことです。22才の青年ルターが親元のマンフェルトから大学のあるエルフトに一人で帰る途中、当時のことですから徒歩で旅をしていたのですが、シュトッテンハイムという村のはずれの畑の中を歩いていると、突然、落雷にあうのです。畑の真中での落雷。ルターは死の恐怖を感じました。恐怖のあまり彼は神様に命ごいをします。当時の人々は、神様に願い事をするとき、神様に直接にではなく、自分の守護聖人に祈るのです。死の恐怖の中で、ルターはこう呼びました。「聖アンナ様、お助け下さい。もし助かったら修道士になって一生涯を神様に捧げます!」・・・・やがて雷はおさまりました。さて、ルターはその後どうしたでしょうか。現代人である我々ならばヤレヤレ助かったとホッとして、じき神様への命ごいもすぐ忘れてしまうでしょう。ところが、・・・・ルターはそうではなかったのです。本当にその二週間後、彼は大学も中退し、修道院に入ってしまったのです。親はガッカリしました、と言うよりカンカンに怒りました。将来、りっぱに大学を卒業して、この世で出世をしてということを期待していた息子が、突然、学校をやめ、何かよくわからない修道院に入ると言い出し、本当にそれを実行してしまったからです。一体、この突然の進路変更をどう考えたらよいのでしょうか。ルターは今から500年も前の中世の人ですから、現代人に比べ神様への信仰心も、もっとリアルなものだったのでしょう。・・・しかし、もともとルターは戸津別、信仰熱心というわけでもなく、ごく普通の青年だったのです。ではなぜ、これほど大胆な行動をとったのでしょうか。いろいろな事を推測し考えることができますが、今日、私たちかなり無責任に言葉を使っています。その場しのぎの言葉を言ったり、相手に合わせて自分が本当にそう思っていることとは逆のことを平気で口に出すことも、しばしばです。あるいは今日、それは社会問題の一つですが、ネットの世界で匿名であるということは、それをいい事に、あることないこと人の悪口や人をおとしめることを平気で書き込み、それを楽しんでいるということです。匿名であるということは、それを書いたり言ったりしても、それが誰だかわかりませんから、後で責任をとる責任を取る必要がないのです。つまり、自分の言葉に責任をもたなくていいわけです。そうしておいて陰で自分一人ニヤニヤ笑っているのですから、卑怯極まりないですが、それが横行している社会です。言葉が軽いというか、人間そのものが軽い薄っぺらいという感じがします。しかし一体、言葉とは何でしょうか。私の口から出てくる言葉は、そんなに薄っぺらいものなのでしょうか。ルターがシュトッテンハイムの畑の真中で、神様に助けを叫んだとき、周りには誰もいなかったのです。つまり、誰も聞いていないのですから、そんな言葉など、あとでイロイロ考える必要もない…と、今の私たちなら考えています。・・・しかし、もっと考えてみれば誰も聞いていない言葉などあるのでしょうか。たとえ周りに誰もいないとしても、その言葉を口に出した「自分」がいる。私自身は、私が口に出した言葉を確かに聞いているのです。そして、キリスト教の立場から言えば私だけでなく、神様が聞いているのです。昔の人なら、「お天とう様が見ている」と言ったでしょう。私が口にする言葉は、決してそんなに軽くはないのです。いわば、その人の人格そのものの現れなのです。ですから、自分の言葉には責任をもつ必要があります。他の人が聞いている聞いていないではなく、自分の言葉は重いのです。ある時、イエス・キリストは
あなた方は「然り、然り」「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。(マタイによる福音書5章37節)
と言われました。言葉というものが、一言一言、その人の心の一番大切なところから出てきた責任ある大事なものである、ということでしょう。ということでしょう。ルターのあのシュトッテンハイム村の畑の真中での、叫びもそうでした。言葉は大切なものなのです。言葉というものが本当に大切なものであるという事、それゆえ自分の言葉には責任を持たなければならないという事を、今日はルターの落雷経験から学びました。そして、最後に一言『自分の言葉に責任を持つ』という事が、実は自分が自分自身に自信もつということなのです。

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