2017年12月8日 チャペルメッセージ

「ルターが愛した聖句」高井保雄 JELC羽村協会牧師

出エジプト記 20章3節
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
ルターはその63年の生涯の中で大変多くの本を書きましたが、その中で最も良く知られているのは、彼の小教理問答書だろうと思います。ルーテル教会では、洗礼を受ける人は必ずこれを学ぶことになっているので、今でも世界中の国の国語で何種類も翻訳、出版されています。ルター自身、数ある著作の中で教理問答を自分の真正の書と誇っています。ルターは「教理問答は、全聖書の簡潔な精髄であり、要約である」と言っています。「教理問答を完璧に理解すれば、全聖書が分かったと同じだ」とルターは言っているのです。その教理問答を、彼は、十戒、使徒信条、主の祈り、洗礼、聖餐の5つの部門に分けて書いています。ルターの著作の特徴の一つは、一番大事なものを一番最初に持ってくるという点なのですが、そこから、ルターは5部門の中で十戒を最も重視している事が分かります。そのことは、彼の教理問答における十戒の説明部分のボリュームの大きさからも分かります。十戒の説明だけで、教理問答の半分近くを閉めているのです。教理問答が十戒の解説から始まるのは別に不思議じゃないと思う人がいるかも知れませんが、ルター以前のカトリック教会や、ルター以後の改革派の教理問答では、使徒信条の解説から始まっています。実は、大方の教理問答がそうなっていて、むしろルターだけが十戒を一番最初に置いているのです。これは極めてユニークな観点だと言わなければなりません。さて、ルターがそれほどに、重視している十戒ですが、その内容は更に、ユニークです。ルターはこう言っています。
思うに、次のことは、確かである。即ち、十戒を完全に理解しているものは、聖書全体に精通しているに相違ない。
聖書全体を理解するのは、誰にとってもとても大変です。しかしルターによれば、十戒を完全に理解する者は聖書全体に精通するのですから、私達もまず十戒に取り組むことが大切になります。そこで十戒の部分を読んで行きますと、ルターは更に興味深いことを言っています。十戒の第一戒についてルターはこう言います。
第一戒が最も重要で、この戒めが守られるならば、他の戒めは、すべてこれに従って、おのずと満たされる。
そうすると、ルターによれば、聖書全体に精通するためには、十戒を完全に理解すれば良い。その十戒の中で第一戒が守られるなら、他の全てはおのずと満たされる、ということですから、早い話が、全聖書に精通するためには、十戒の第一戒を完全に我がものとすれば良いのだということになるわけです。現代では、幾ら時間があっても足りないほど忙しい時代に、私達は生きています。そういう私達にとって、このルターの教えは極めて貴重な、そして有益なものと言えます。たった一つの聖書の言葉について、完全にそれを我がものにすることが出来れば、全聖書の神髄が分かると言うのですから、これに取り組まない手はありません。他ならないルター自身が、この十戒の第一戒に命がけで取り組んだのです。そのために、ルターはそれまでの自分の全てを投げ打って修道院に入るわけです。その動機は、「私は、如何にして、恵みの神を獲得できるか」というものだと言われています。「神を獲得する」「神を我がものとする」「神を持つ」には、如何にしてそれが可能かと、ルターは8年間、修道院生活を通して必死で十戒の第一戒に取り組んだのです。その十戒の第一戒とは何かと言うと、それが先程読んで頂いた、出エジプト20:3の
あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。(出エジプト20章3節)
というものです。この第一戒について、ルターは修道院の生活の中で昼も夜も思いをめぐらしていたにちがいありません。「神以外のものを神としてはならない」とはどういうことか、「神を神とする」とはどういうことか。「自分の神を持つ」とはどういうことか。この問いに対してルターは小教理問答で次のように答を述べています。
第一戒 私はあなたの神、主である。あなたは私のほかに何ものをも神としてはならない。これは何か。
答  私達は、何ものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです。
実は、私は最初この問答を読んだ時に、この答の意味が良く分かりませんでした。「神を神とするとはどういうことか」「神以外のものを神としないとはどういうことか」という問いに対して、「私達は、何ものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです。」というのがなぜ答になるのか分かりませんでした。どこかちぐはぐな印象があるのです。ルターにとって、十戒の第一戒についての問答は教理問答の中で最も大切な問いと答の部分であるはずです。その最も大切な答のはずの「私達は、何ものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです。」という言葉が、私には大きな謎で心に掛かかっていました。その疑問が、私にとっては、ルターについての学びをすることのきっかけとなりました。このことを考えるためには、ルターの信仰の道筋をたどることが必要です。修道院に入った当初のルターにとって、「神を神とする」とは、「何ものにもまして、神を恐れる」ことでありました。神は恐るべき最後の審判者であり、容赦なく自分のような罪人を裁く方であり、その裁き主の示す峻厳な正義こそ「神の義」であると捉えていました。この全ての人の罪をどこまでも追究し、徹底的に裁く神を、ルターは遂に憎むまでになったと告白しています。一時は絶望的になっていたルターでしたが、ある時「神の義」をそれまでのように神の裁きとして捉えるのではなく、それまでとは全く別の、新たな「神の義」として捉える事が出来たと言うのです。十戒に代表される律法を行うことではなく、神が、律法を満たすことができない罪人をキリストの十字架を通して受容される。罪人以外の何ものでもない人間は、そのことを信じて受け容れることによってのみ「義」とされる。その体験をルター自らがするわけです。その時、「天国の門が開いたように思えた」と彼は後になって告白しています。ルターの言う「信仰義認」とは、そのことを指しています。それ以後のルターは、このキリストが罪人である自分の内で共に働いて下さるという、キリストへの信頼の内に生きる人となったわけです。こうして、ルターの生涯をたどってみると、初めは「神を恐れ」、やがて「神を愛し」、そして遂に「内なるキリストに信頼」することができた。そういうルターの生涯にわたる神への思い、即ち信仰の発展が、この大変短い「神を恐れ、愛し、信頼する」という言葉に凝縮されているのではないかということに、私は思い至った次第です。たった一言で、ルターは、自分の生涯にわたる神観、神への信仰を語っている。それが、この「私達は、何ものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです。」という、ルターの答の持つ意味ではないかと、今、思っています。
ルターがその全存在をかけて十戒の第一戒の答を書いたように、私達も自分なりの生き方を通して、この第一戒の答を書くために、思いを巡らす者でありたいと思うのです。

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