2016年5月1日 チャペルメッセージ

2016年5月のメッセージ

ルーテル学院大学では、授業のある日は毎日、お昼の礼拝が行われています。参加は自由ですが、授業の合間にほっと一息、心を静めるひとときになっています。ここでは、礼拝メッセージの一部をご紹介します。

「山が移り、丘が揺らぐ」江口 再起 教授

2016年5月_01

イザヤ書54章10節

山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。

イザヤ書24章10~20節

混乱の町は破壊され/どの家も閉ざされ、入る者もない。
巷には酒を求めて叫ぶ声がある。喜びはことごとくうせ/地上の楽しみは取り去られた。
都には荒廃だけが残り/騒ぎのうちに城門は打ち倒された。
世界のただ中、諸民族の間で/オリーブを探して打ち尽くすようなことが/収穫の後になお/ぶどうを探すようなことが起こる。
彼らは声をあげ、主の威光を喜び歌い/海から叫び声をあげる。
それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。
地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と。しかし、わたしは思った。「わたしは衰える、わたしは衰える/わたしは災いだ。欺く者が欺き/欺く者の欺きが欺く。」
地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む。
恐怖の知らせを逃れた者は、穴に落ち込み/穴から這い上がった者は、罠に捕らえられる。天の水門は開かれ、地の基は震え動く。
地は裂け、甚だしく裂け/地は砕け、甚だしく砕け/地は揺れ、甚だしく揺れる。
地は、酔いどれのようによろめき/見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く/倒れて、二度と起き上がることはない。
4月14日から、熊本で大きな地震が起こり続けています。今まで私たちが経験したことのない恐ろしい地震で、震度5以上の揺れが断続的にもう1ヶ月以上もつづいています。今も、つづいている。亡くなった方、ケガをした人、避難されている方々、—どんなにか不安で、悲しみに押しつぶされ、疲れきっているでしょうか。熊本の街が姿をかえ、熊本城がこわれ、阿蘇の山なみがくずれました。《山が移り、丘が揺らぐ》。—イザヤ書54章10節の初めにそう書いてありますが、まさにその通りです。実はイザヤ書には、もっと地震を連想させ、もっとリアルな光景も描かれています。こう描かれています。
地の基は震えゆく。地は裂け、はなはだしく裂け、地は砕け、はなはだしく砕け、地は揺れ、はなはだしく揺れる。地は、酔いどれのようによろめき、見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く、倒れて、二度と起き上がることはない。
今日は、短い時間ながら、こうした大地がゆれるというーあまりに恐ろしい体験について、聖書の言葉に耳を傾けつつ考えてみたいと思います。

日本の国は、この約20年間に三度も大地震にみまわれました。1995年の阪神大震災、2011年3月11日のあの東日本大震災、そして今回の熊本大地震です。「地震大国」と言えば、それまでですが、しかし一体、この過酷な現実をどう考えたら良いのか。まず誰しもが、自然の恐ろしさ、自然の巨大さを感じたのではないでしょうか。明らかに人間の力をこえているーその強大さその巨大さ!!

神戸では近代都市が壊滅し、東北では海が襲ってきてフクシマ原発が爆発し、そして熊本では山が、大地が揺らぐ。考えてみれば私たち日本人はふだん豊かな自然、やさしい自然の中でおだやかに日々を過ごしてきました。やさしい美しい自然につつまれ、それゆえ、その自然を信じてきました。すべては自然から始まり、自然がやさしく人間をはぐくむ。いってみれば日本人の宗教は“自然教”です。

それに対して「キリスト教」、「聖書」はどう語るでしょうかー
確かに自然は私たち人間をやさしく包み支えてくれますが、ところが、その自然も実は始めから、それこそ自然にあったもので、実は神様が「造った」ものだと考えています。天地は、神が造った。その宇宙は、神が造った。つまり、その自然は、もともとあったものではなく、神様がお造りになったものだ、と聖書は語るのです(創世記1章)。

神が造ったもの、それが自然なのだと聖書は語る。つまり、自然は人間が造ったものではない。このことを少し言葉をかえて言い直してみれば、自然とは神が造られたそのままのもので、本来、人間が手を加えていないもの、それが人間ということなのです。—それに対し、その神が造ったそのままの状態、つまり自然に人間の手が入ると、そこに「文化」が生じるのです。カルチャーとは、大地、つまり自然に手を耕すという言葉に由来します。

さて、そこで、更に考えてみます。—神様が造られた、そのままの状態、それが自然である。とすると、元来、自然は神が造ったそのままのものであるから、スケールが大きい。もともと巨大である。人間の力など比較にならぬほど、本来自然は巨大なものなのです。神が造ったものだからです。人間の力など、ものの数ではない。それは一たび地震が起こればすぐわかる。

ところが、不思議なもので、常日頃、私たち人間は、その神が造ったその巨大な自然を、人間の手でコントロールできる、人間の好みに合わせて改造し、コントロールできるように、何となく考えています。それが現代文明、この私たちの世界なのかもしれません。月にまでロケットを飛ばし宇宙基地を作ろう、としている。—

それはともあれ、悪意も悪気もなく、むしろ良き心で、私たちは「自然を守ろう」と口にし、「自然保護」を叫びます。「自然を守ろう、自然にやさしく」。—もっともなことです。人間があまりに自分の快適さを追及するあまり、自然環境が破壊され、地球温暖化が進み、自然が悲鳴をあげている、と感じられるからです。そこで、自然を保護しよう、自然を守ろうと叫ぶ。—つまり、人間が自然の保護者であるという響きがあります。自然を守る(!)—

もちろん、この言葉には少しの悪意もありませんが、少し意地悪くやや強い言葉で言えば、この人間が自然の保護者である。人間が自然を守ってあげようというのは、少し人間の力を過大評価しすぎている。人間に自然を守ってあげる、保護してあげる、そんな力が本当にあるのか。それは人間のやや思い上がりではないか。—

むしろ、逆ではないか。人間が自然を守ってあげるのではなくて、むしろ逆に神が造られたそのまま自然こそが、元々、人間に恵を与え、人間を守ってきたのではないか。より正確に言えば、神が自然をつくり、その一部に人間をつくられた、それゆえ、神こそが自然と、そして人間を守ってきたのではないか。人間が自然をつくり守っておられるのではないかー。
そう考えれば、人間が自然を守るという言葉には、無意識ではありますが、少し人間の力の過大評価、ゴウマンの響きがあります。そして、その時、あのイザヤ書24章の言葉が胸に響いてきます。
地の基は震えわく。—地は酔いどれかのようによろめき、見送り小屋のようにゆらゆらとわかされます。地の罪は、地の上に重く、倒れて二度と起き上がることはない。
なにか恐ろしい聖書の言葉です。「地の罪」は重い、と書いてあります。私たち人間の罪ということです。・・・私は、ここで地震の被害を受けた人に「罪」があったのだ、などということを言いたいのではありません。とんでもないことです。テレビに映し出される被害を受けた方々の悲しみに満ちた顔のどこにも何人の罪もない。ここで指摘されている罪とは、私自身を含めて人間の、すべての人間のかかえている大きな、ゆがみにみちた問題性、そのことを言っているのです。自然に対して、そして、それを造られた神様に対して、無意識にではあれ、著しくゴウマンになっていた自分自身を含めてすべての人の問題です。それに私自身、小学校、中学校、高等学校を熊本で過ごした人間です。毎日、熊本城をながめて生活していた人間です。いわば熊本は「ふるさと」なのです。そうであればこそ、今回の大地震は、私自身の問題なのです。・・・私は自然に対して、もっともっと謙虚な、つまり、自然を造られた神の怒りで、もっともっと謙虚にいきていかねばならないと思うのです。

私たちは改めて、自然の大きさ、巨大さを骨身にしみて学びました。自然の大きさ、そして、その自然を造られた神の大きさ。その大きな神にむかって、私たちは何と言うべきでしょうか。
最後にもう一度、イザヤ書54章10節を見ましょう。神が言われた。
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。
・・・神は必ず悲しんでいる人々をあわれみ助けてくださる。そう書いてあります。

こわれた町、悲しみに泣いている人々・・・復興には、きっと少し長い時間がかかると思うのです。今、私たちにできることは、そう多くない。「祈る」ことぐらいしかできないのかもしれない・・・。いや、こう言うべきでしょう。今、私たちには、まず、被災された人々に元気がでますように。神様に、まず祈ることができる。

そして、必ずや被災された人々に対して何か本当に必要に応じて、私たちに、できることが見つかると思います。その時には、力をだしおしみせず、自分のできることとして、今、悲しんでいる人々と共に生きていきたいと思うのです。

「取り繕うことなく」齋藤 衛 神学校准教授

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コリントの信徒への手紙・4章1~6節

こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
共に集められたことを感謝します。
妙なことから切り出しますが、皆さんも人から批判されたことは多かれ少なかれあるかと思います。そんなとき、どうされるでしょうか。私などはドギマギして、とっさに取り繕ってしまうことがあり、それで後悔する。自己嫌悪です。

今、必死に取り繕いに真っ最中の人が、どこかの知事におられます。その取り繕いを見て多くの人が、がっかりもし、かえって取り繕いの隙間から真実を知ることになっている。「私は間違っていない。頑張っています」と言いたくて必死ですが、身から出た錆は取り繕いようがない。
その姿を見るにつけ、その場を取り繕えば、やがてその取り繕いがほつれて、かえって自分がずたずたになっていくのだ、と知らされ、取り繕うことなく、きっぱりとした生き方をしたいものと思わせられます。
その点で今日のパウロの言葉は、このとき批判を浴びて苦境にあるのですが、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」と告げるように、取り繕うことではなく、要領のいい生き方もせず、むしろ、このままで、隠すことなく真実のうちに生きて行く。きっぱりと弱くある、そう腹を決めている姿を教えられます。
取り繕うのは目に見えて強くありたいから。しかしパウロは見た目弱く映ろうとも、見えない方への信頼があるようです。

このような腹の据え方を信仰によって、劇的に、いただいたのがパウロという人物でした。彼は強烈なユダヤ教徒としてクリスチャン迫害の急先鋒でした。ところがある日、光に包まれ復活の主の声を聞いた。目が見えなくなった。だがこれまた主のご計画のうちにあって目が開かれ、目から鱗が落ち、見えるようになった。たいへん象徴的です。つまりこのとき分かったのだと思います。あの方が主だと。弱い自分と主の憐れみが。自分がいかに土の器であり、主の恵みによってこそ生かされていたのかが分かったのです。見えなかったものが見えるようになった。
ここに起こっているのは、一度壊され、そして神の憐れみによって新しく立てられた人生です。パウロはそう承知した。自分の強さを誇ることではないと知った。むしろ弱い自分が主と出会い、生かされた。
私の属する祈りの共同体が新しく発足する礼拝で、準備万端整えられ始まりました。しばらくして、突然礼拝堂の陶器のろうそく台が割れた。なぜか分からないのです。新しい出発のためにとせっかく購入したものでした。縁起が悪いとは皆クリスチャンですからさすがに思いませんが、不吉さとか、落胆がうっすらその場にあった。だが皆で祈ったのです。やがて祈りのリーダーであるシスターは、壊されて新しくなるということですねと告げ、皆で一層の喜びを分かち合った。深い意義を与えられ、新しい出発にふさわしいものとなった。
そういうものです。壊れないと新しくされない。

弱さについて目が開かれたパウロは、実はコリントの教会の人々から非難されていたのです。果たしてパウロに使徒の資格があるのかとか、自分流に聖書を解釈しているとか。厳しい非難の矢面に立っていた。使徒である証明書も、力強い弁舌もなかった。
だからパウロは、苦悩し、格闘した。しかし、それによって、パウロが獲得したのは、神に希望を置くということでした。だから、批判にも腹が決まっていた。苦しみにも落胆しなかった。むしろ弱い時にこそ強い、という神の原理に生きていた。「わたしはイエスのために、あなたがたの奴隷だ」とまで言っています。どうしてここまで言い切れるのでしょう。
復活を知っているからです。十字架と復活です。壊されて新しくされる。一度壊されたがゆえに、この新しさに生きられた。

闇から光が輝きでよと命じられた神が、同様にパウロの闇であった心に光あれと告げてくださった。そこでキリストの輝きを知った。死がいのちをもたらしている。
死を通して命の道があること、喪失を通して回復の道があることをいただいていたのです。
私たちが生きるということは、ときに非難されたり落胆したりということも、あるでしょう。
ですが、そんなときこそパウロのように大胆に挑戦するのです。十字架と復活という信仰の逆説によって私は生かされている、壊されることにひるまない、と。あなたの弱さは尊く、主イエスを迎え入れる器です。

私たちの人生にある、悲しみや喪失や絶望にも、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにする。そして皆の良心に委ねる。小ざかしく策を用いることはせず、自分のままで神を顕す働きをし、むしろ真実に生きなさい。パウロは自分自身、そうしたと言います。
それを支えるのは、あなたの痛みを共にするために十字架に向かって行かれた主イエスの真実です。この弱さはまことの強さです。
主に信頼して、弱くも堂々と生きて良い。うろたえるな、主の恵みは確かだ。

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