2016年5月1日 チャペルメッセージ

「取り繕うことなく」齋藤 衛 神学校准教授

コリントの信徒への手紙・4章1~6節
こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

共に集められたことを感謝します。
妙なことから切り出しますが、皆さんも人から批判されたことは多かれ少なかれあるかと思います。そんなとき、どうされるでしょうか。私などはドギマギして、とっさに取り繕ってしまうことがあり、それで後悔する。自己嫌悪です。

今、必死に取り繕いに真っ最中の人が、どこかの知事におられます。その取り繕いを見て多くの人が、がっかりもし、かえって取り繕いの隙間から真実を知ることになっている。「私は間違っていない。頑張っています」と言いたくて必死ですが、身から出た錆は取り繕いようがない。
その姿を見るにつけ、その場を取り繕えば、やがてその取り繕いがほつれて、かえって自分がずたずたになっていくのだ、と知らされ、取り繕うことなく、きっぱりとした生き方をしたいものと思わせられます。
その点で今日のパウロの言葉は、このとき批判を浴びて苦境にあるのですが、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」と告げるように、取り繕うことではなく、要領のいい生き方もせず、むしろ、このままで、隠すことなく真実のうちに生きて行く。きっぱりと弱くある、そう腹を決めている姿を教えられます。
取り繕うのは目に見えて強くありたいから。しかしパウロは見た目弱く映ろうとも、見えない方への信頼があるようです。

このような腹の据え方を信仰によって、劇的に、いただいたのがパウロという人物でした。彼は強烈なユダヤ教徒としてクリスチャン迫害の急先鋒でした。ところがある日、光に包まれ復活の主の声を聞いた。目が見えなくなった。だがこれまた主のご計画のうちにあって目が開かれ、目から鱗が落ち、見えるようになった。たいへん象徴的です。つまりこのとき分かったのだと思います。あの方が主だと。弱い自分と主の憐れみが。自分がいかに土の器であり、主の恵みによってこそ生かされていたのかが分かったのです。見えなかったものが見えるようになった。
ここに起こっているのは、一度壊され、そして神の憐れみによって新しく立てられた人生です。パウロはそう承知した。自分の強さを誇ることではないと知った。むしろ弱い自分が主と出会い、生かされた。
私の属する祈りの共同体が新しく発足する礼拝で、準備万端整えられ始まりました。しばらくして、突然礼拝堂の陶器のろうそく台が割れた。なぜか分からないのです。新しい出発のためにとせっかく購入したものでした。縁起が悪いとは皆クリスチャンですからさすがに思いませんが、不吉さとか、落胆がうっすらその場にあった。だが皆で祈ったのです。やがて祈りのリーダーであるシスターは、壊されて新しくなるということですねと告げ、皆で一層の喜びを分かち合った。深い意義を与えられ、新しい出発にふさわしいものとなった。
そういうものです。壊れないと新しくされない。

弱さについて目が開かれたパウロは、実はコリントの教会の人々から非難されていたのです。果たしてパウロに使徒の資格があるのかとか、自分流に聖書を解釈しているとか。厳しい非難の矢面に立っていた。使徒である証明書も、力強い弁舌もなかった。
だからパウロは、苦悩し、格闘した。しかし、それによって、パウロが獲得したのは、神に希望を置くということでした。だから、批判にも腹が決まっていた。苦しみにも落胆しなかった。むしろ弱い時にこそ強い、という神の原理に生きていた。「わたしはイエスのために、あなたがたの奴隷だ」とまで言っています。どうしてここまで言い切れるのでしょう。
復活を知っているからです。十字架と復活です。壊されて新しくされる。一度壊されたがゆえに、この新しさに生きられた。

闇から光が輝きでよと命じられた神が、同様にパウロの闇であった心に光あれと告げてくださった。そこでキリストの輝きを知った。死がいのちをもたらしている。
死を通して命の道があること、喪失を通して回復の道があることをいただいていたのです。
私たちが生きるということは、ときに非難されたり落胆したりということも、あるでしょう。
ですが、そんなときこそパウロのように大胆に挑戦するのです。十字架と復活という信仰の逆説によって私は生かされている、壊されることにひるまない、と。あなたの弱さは尊く、主イエスを迎え入れる器です。

私たちの人生にある、悲しみや喪失や絶望にも、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにする。そして皆の良心に委ねる。小ざかしく策を用いることはせず、自分のままで神を顕す働きをし、むしろ真実に生きなさい。パウロは自分自身、そうしたと言います。
それを支えるのは、あなたの痛みを共にするために十字架に向かって行かれた主イエスの真実です。この弱さはまことの強さです。
主に信頼して、弱くも堂々と生きて良い。うろたえるな、主の恵みは確かだ。

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