2016年12月1日 チャペルメッセージ

2016年12月のメッセージ

ルーテル学院大学では、授業のある日は毎日、お昼の礼拝が行われています。参加は自由ですが、授業の合間にほっと一息、心を静めるひとときになっています。ここでは、礼拝メッセージの一部をご紹介します。

キリスト教と茶道 上村 敏文 准教授

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ローマの信徒への手紙 1章20節

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
「キリスト教と茶道」というタイトルを見て、びっくりされた方もいるかもしれません。わたしも約30年前に、聖心女子大学の丹沢寮でフランス人の司祭が和室でミサをなさった時、茶道の作法でミサをされたのをみて驚いたことがあります。その時は、カトリックは第二バチカン公会議以降、それぞれの文化を大切にする立場から、茶道をミサの様式に取り入れたのだと思っておりました。しかもそれは薄茶ではなく濃茶の袱紗捌き(ふくささばき)をされていたので、二重の意味で驚いたのです。普段私たちがお茶会でよく見るものではなく、四方捌きという特殊なやり方をしていたのです。大学時代に茶道部に入門したのですが、毎回お祈りから始まりました。手を合わせて「感謝」そして「愛」という言葉を断片的に覚えています。「なぜお祈りから稽古に入るのかな?」と不思議に思っていました。今から考えると、カトリックが茶道の様式を取り入れたのではなく、当時「わび茶」を大勢した千利休が、晩年に完成させた様式は、まさに彼自身がミサの様式を取り入れて新しい茶道の境地を作り上げていったのです。

ここに一本の茶杓がありますが、利休好みのものと伝えられています。江戸文化史研究家で東京教育大学(現筑波大学)名誉教授の西山松之助氏によると、この中にある節は、それを貫く樋によって十字架をあらわしているという説を出されました。また、茶室に入る狭い入り口は「狭い門」を表し、「野の花」が野にあるように生けられ、まず菓子をいただき、そしてその後にお茶を押し頂いてちょうだいする。この一連の流れはきわめてミサに近いものです。春日部福音自由教会主任牧師であり表千家教授でもある高橋敏夫氏は、『茶の湯の心で聖書を読めば』(いのちのことば社)の中で、聖書と茶道との関連について詳しく述べていらっしゃいます。

京都の桂離宮には7つのキリシタン灯篭がありますが、その中にラテン語のFILI(御子)が刻まれてあるそうです。日本全国にはこのキリシタン灯篭が多く存在します。利休の弟子であり、キリシタンであった古田織部が作ったものであると言われております。

本日の聖句はローマの信徒への手紙1章20節ですが、「神の見えない性質」、「神の永遠の力と神性」は被造物によって知られるとあります。日本の文化の中にはすばらしい工芸、美術がありますが、茶道はその中でも傑出しています。久松潜一氏は『茶の湯の哲学』で「わび茶」の特徴を、簡素、自然、幽玄、脱俗、静寂などいくつか挙げられておられます。その中でキリシタン大名であった高山右近がとくに重要視したと思われるのが脱俗でした。イエス・キリストの十字架の贖いによって、「脱俗」は完成すると考えていました。鈴木大拙は、禅宗になくてキリスト教にあるものがこの贖いであると指摘されておられます。右近は立身出世よりもこの十字架の道を選んで日本から追放されたのです。

「心を贈ろう」河田 優 チャプレン

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マタイによる福音書 2章9~11節

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
今、皆さんと劇を観ました。これはオー・ヘンリー作の「賢者のおくりもの」という物語です。登場人物は、美しい髪の毛を持つデラとその夫ジムでした。この夫婦は貧しく、クリスマスを前にして互いに何をプレゼントしようかと頭を悩ませます。それぞれに贈りたいものはあるのです。でもそれを買うにはお金が足りません。
二人はそれぞれ決心をしました。デラは自分の髪の毛を売り、ジムの時計につける鎖を買いました。そしてジムは時計を売って、デラの髪の毛に挿す鼈甲の櫛を買いました。しかし、それほどまでして手に入れた櫛とくさりを相手に贈ろうとも デラの美しい髪もジムの自慢の時計もすでになかったのです。そのようなお話でした。
私はこの物語のタイトルが「賢者のおくりもの」となっていることが少し不思議だなと思いました。なぜなら、これは二人の大失敗の話であって、むしろタイトルとするならば「愚者のおくりもの」の方がぴったりくるような気がするからです。皆さんはどうでしょうか?
では、作者のオー・ヘンリーはなぜこの作品に「賢者のおくりもの」というタイトルをつけたのかを考えてみましょう。

まずは先ほど劇の最後に読み上げられたオー・ヘンリーの言葉から、この物語はイエス・キリストの降誕物語から影響を受けていることが分かります。それが、先ほど読んでいただいたマタイによる福音書の個所なのです。もう一度お読みします。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
これは教会では「三人の博士」の物語として知られています。ちなみに博士は「マゴス」というギリシャ語が用いられ、これは英語のマジックの語源となりました。ですからここでイエスを訪ねたのは、博士というよりも、魔術師あるいは占い師をイメージした方が良いかもしれません。しかし、今の時代のようにこれらの職業は怪しいものではありませんでした。有名な占い師は人々から尊敬されていたのです。私たちが使っている聖書では「占星術の学者」となっています。
彼らは東の国に住んでいた異邦人でした。ある時、星を見ていて新しい王の誕生を知り、危険も承知で長い旅に出かけたのです。迷いながらもやっとの思いでイエスのもとへたどり着きます。そこでイエスを礼拝し、イエスに黄金、乳香、没薬を捧げたと聖書に記されています。これらのものは、聖書では「宝の箱」から出されたと書いてあるので、三つの宝物と言われるようになりました。でも、この「宝の箱」というのは、私たちがイメージするような海賊船に積んであるようなものではない。大きながっしりとした宝箱ではありません。
むしろこれはリュックサックのようなものであり、そこに食料をはじめ、日常の生活に欠かすことのできないものを入れていたのであろうと考えられるのです。
では、そのリュックサックから取り出された黄金、没薬、乳香とはどのようなものだったのか?おそらく日常的に使うものが入っている袋ですから、この時に取り出された三つの贈り物は、彼らにとっての仕事道具であったと考えられます。彼らは占いを生業としていました。占いのために、曇りを見る黄金。祈祷の時に焚く良い香りのする乳香。没薬は万病に用いられることがあります。ですからこの没薬を染込ませたインクでお札を書く。などが考えられるのです。
つまり、この三つの贈り物を考える中で大事なことは、彼らは宝物として飾っておくようなものを捧げたのではなく、自分たちの日ごとの生活の中で欠かすことのできないものを捧げたということなのです。三つの贈り物は、高価であるという宝物としての価値もあったでしょうが、それよりも自分にとってはけっして欠かせないという意味での宝物であったのです。これまで肌身離さず持ち歩き、大切にしてきたという意味での宝であったのです。
ところが、彼らは、そのような宝を取り出し、生まれたばかりのイエスに捧げたと聖書にありました。その行為は、今まで大切にしてきた自分自身を捧げることでもあるし、この先の自分の生き方をも捧げたということになるでしょう。捧げられた三つの宝物は、自分自身をイエスに捧げたことを表しているのです。

このように考えると劇の話と似てきてきます。欠かすことのできない宝とはデラにとっての髪の毛もそうでしたし、ジムにとっての時計もそうでした。この二人も今まで手放すことなど考えられなかったものを捧げて、相手への贈り物としようとしたのです。
「賢者のおくりもの」、だからこの物語の大きなテーマは、何を受け取ったかよりも何を捧げたかということであることに気づきます。贈り物が交わされるとき、尊いのは、何をもらったかではなく、何をあげたかということ、つまり愛する者のために自分自身を捧げることが大切であり、オー・ヘンリーはそのような人たちを賢者と呼んだのです。

ちなみに本年度の礼拝委員会が掲げる主題聖句は「受けるより与える方が幸いである。」です。「受けるより与える方が幸いである。」たしかにそうでしょう。デラとジムがそうだったように、この占星術の学者たちがそうだったように、私たちも与える者として生かされたいのです。

最後にもう一つ聖書からお話します。
今日の個所をよく読むと、この時に宝物が捧げられたはずのイエス自身が、捧げものとしてご自分を与えるためにお生まれになったことが分かります。マタイによる福音書にはイエスが生まれたことを新しい王の誕生と捕えています。だから占星術の学者たちは旅立ったのです。また、ルカによる福音書では、天使が「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と羊飼いに告げています。

お生まれになったイエスは、すべての人の救い主としてお生まれになりました。その救いはすべての人の罪を引き受け、ご自分の命を捧げることでした。イエスは救い主として命を捧げるためにお生まれになったのです。新しい王イエスは、ご自分の命を与える王であったのです。聖書を読むと、私たちはみな、このイエスが捧げてくださったご自分の命のゆえに、罪がゆるされ、新しい命に生きるという救いが与えられているのです。私たちの救い主としてお生まれになったイエスの命がまず私たちに贈られています。

クリスマスを迎えるこの時、私たちは新しい王としてイエス・キリストがお生まれになったことに感謝し、その与えられた命を受け止めたいと思います。そして、私たちも愛する人たちに自分自身を捧げるような生き方へと変えられていきましょう。
良いクリスマスを過ごされますようにお祈り致します。

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