2017年6月9日 チャペルメッセージ

2017年4・5月のメッセージ

ルーテル学院大学では、授業のある日は毎日、お昼の礼拝が行われています。参加は自由ですが、授業の合間にほっと一息、心を静めるひとときになっています。ここでは、礼拝メッセージの一部をご紹介します。

「かけがいえのない一匹」(入学式説教)江藤 直純 学長

2017年4月

 ルカによる福音書 15編1~7節

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
ようこそ、ルーテル学院へ。入学おめでとうございます。
この春、全国で約60万人が800あまりの大学に入学しました。皆さんは60万人の中の一部で、ルーテルも800余の大学のひとつです。皆さんがルーテル学院大学に入ったその可能性は7500分の1くらいとも言えるでしょうが、これは偶然でしょうか。今の時点での受け止め方はさまざまでしょうが、4年後に卒業するとき、「ルーテルに入って良かった。こここそが来るべき場所だった。わたしがルーテルに入ったのは必然だった」と言えるようになっていたら、素晴らしいですね。
これからルーテルで何が起こるのでしょうか。サークルもボランティアもアルバイトもきっといろいろやるでしょう。それらは必ずやいい経験になるでしょう。でも、それと平行して、やはりここは大学ですから、あるいは大学院また神学校ですから、皆さんが幅広い教養を持つように、また専攻する分野についての専門的な知識と、それを実践に移すのに必要な技能・技術をしっかり身につけるようにおおいに力を注ぐことでしょう。それをしないなら大学に来る意味がありません。どんなに苦労をしてでも、ぜひともその知識と技術を「あなたのもの」にしてください。期待していますし、私たちも精一杯応援します。
でも、知識と技術だけならば、どれほど優秀な成績を収めても、それだけでは物足りません。それと同時に、その知識と技術を用いて「どう生きるか」「だれと生きるのか」「どこで生きるのか」「そういう生き方をするこのわたしは一体何者か」――そんなことを考える力、そこに喜びを感じ取る心、他者と共に生きようとする志、豊かな人間性を養いましょう。言い換えるなら、自分の人生においていったい何を大切にするのか、自分の時間をどのように使うのか、そういうことをよーく考える人間になりましょう。そういうことを大切にするあなたをルーテルは大歓迎し、心から応援したいと思います。

価値観とか心の持ち方というものは、人の生き方に大きな影響を与えます。ここに取り出しましたガラスの器を見てください。この中にぶどうジュースがちょうど半分ほど入っているのが見えるでしょう。1600cc入る容器に800ccの液体が入っています。今朝量って入れたから紛れもなく、これは事実です。この事実を見て、あなたはどう感じますか。
ある人は、これを見て、「なんだ、半分しか入っていない」という受け止め方をするかもしれませんね。たしかに半分しか入っていません。喉が渇いているから、1リットルのジュースを全部飲みたいと思っているとしたら、これでは足りないですね。「半分しか入っていない」という感じ方の奥には、本当は全部入っていればいいのに、この容器にはあるべきぶどうジュースがちゃんとない、という不満とか不平とかの思いが、あからさまに言うかどうかは別にして、隠されてはいませんか。もっと強く言えば、もしここにぶどうジュースが満タン、口のところまで溢れんばかりに入っている容器があるならば、全部入っている容器と比べると、この容器は足りないとか劣っているとか見栄えがしないとかといったマイナスの評価、ネガティブな判断が潜んではいませんか。これだけなら、自分ひとりで飲んで、あとは我慢するかという思いもよぎるかもしれません。
それに対して、「この容器にはぶどうジュースが半分も入っている」というふうに感じる人も中にはいるでしょう。「半分も入っている」、こういう言葉が出てくるときは、ここにあるぶどうジュースに対してとても肯定的な、前向きな、積極的な評価、受け止め方をしていることになりますね。さらに言えば、このぶどうジュースの存在に対して感謝の思いをさえ抱いているかもしれません。そんな貴重なぶどうジュースなら、少ないかもしれないが、これを仲間たちと一緒に飲もうか、という楽しみへと発展的に捉え、また分かち合うという喜びの行動を生み出すことも起こり得ることです。
ぶどうジュースが容器に半分入っているという事実はなにも変わりません。でも、それをどう捉えるかということは、大袈裟に言えば、まるで正反対の生き方を生み出すことにつながっていくのです。
「半分しか」、あるいは「半分も」、これは今までに聞いたことがある話しかもしれませんが、見逃してしまいそうな小さなことのようであっても、実はその人の生き方そのものに小さくない影響をあたえるようなことだということを改めて知ってほしかったのです。
これがジュースでなくて人間だったらどうでしょうか。計算能力、運動能力、知能指数、いろんな尺度で測ると、いろんな数字が出てきます。そのとき、あなたはどういうふうにその事実を、その人をみますか?
今の世の中を覆っている価値観にはどんなものがあるでしょうか。つい先日も今年の介護福祉士の試験の合格者が前年度と比べて大きく減ったことがニュースになっていました。その原因はそもそも志願者が大幅に少なくなっていたのです。これからの日本社会の変化に備えて福祉の担い手がますます必要になってくるということはだれの目にも明らかなのに、肝心のなり手が少ないのです。増えないどころか減っているのです。若い人たちにその分野で働きたいという意欲を起こさせるように給料や働き方などの対策を政府は十分には行っていないし、道徳教育を振りかざしているのに、そのような自然と助け合う社会を作ることの大切さを伝えきれてはいないのです。むしろ進路の選択の時に勧められていないのです。世間では、競争が奨励され、それに勝つことがよいことされ、成果・業績をあげることは高く評価されても、さまざまな個性、特徴をもった人たちが等しく重んじられる風潮は弱いのです。
思い出すのも胸が痛みますが、昨年7月の相模湖近くの障害者施設が襲撃され、19人の尊い命が奪われ、多数の人が傷つけられたとんでもない事件がありました。あの施設にはルーテルの卒業生も二人働いていました。事件のあと、犯人のいう「生きていく価値のない人は抹殺したほうがよい」という思想を批判する声と同時に、かれに共鳴する声がネットの世界に広がったということは、極端な例ではありましょうが、わたしたちの社会が抱えている負の部分、克服しなければならない課題なのです。
それは、一人の人が生きているというひとつの事実を前にして、人間のいのちの尊さとか価値とかをどれだけ深いところで、捉え、自分のものとしているか、仲間たちと共有しているかということにかかっています。

わたしたちが今集まっているこの空間は、ルーテル学院大学・神学校のチャペルあるいは礼拝堂と呼ばれる場です。この入学式で教員たち、また続いて讃美歌が歌われる中を入堂してきた新入生たちの行列の先頭に立っていたのは、あの十字架とこの聖書、大学と神学校という二つの学校の校章が描かれたバナーでした。十字架はイエス・キリストの臨在を象徴的に表します。聖書には、わたしたちに語りかける神の言葉が記されています。大学の校章はその十字架をわたしたちルーテル学院に連なっている学生と教職員たちを表すアルファベットのL、ルーテルの頭文字のLが取り囲んでいる様子を示しています。これはわたしたちの学院が拠って立つ土台、また目指すべき理想をシンボリックに表しているのです。
だからこそ入学式でも聖書の一節が読まれ、祈りもささげられるのです。けれども、聖書の話しは必ずしも世間にふつうに行き渡っている常識的な教え、考え方ではないこともしばしばです。
先程朗読されたルカによる福音書に記されている羊と羊飼いの話しもそうです。一つの事実をどう受け止めるかにかかっていると言えます。では、この譬え話を見てみましょう。
ある人が百匹の羊を飼っていました。彼は羊たちを緑の草ときれいな水のある安全なところに連れて来て、のどかな時を過ごしていました。けれども、そのうちの一匹は、好奇心が強かったのか、我が儘で自制心がなかったのか、目の前のきれいなもの、美味しそうなもの、珍しいものに心惹かれるままに一匹だけ群れから遠く離れて行きました。自由奔放とも言えるでしょうし、愚かとも言えるでしょうが、気が付いたら周囲にはだれもいなくなっていて、危険な場所に迷い込んでいました。空には獲物を狙うイヌワシが飛んでいます。孤独と不安、死の恐れとで生きた心地もしないで震えていました。
そのとき羊飼いは残りの九十九匹を野原に残して、あちこちと山の中や谷底まで探し回り、ついに迷子の羊を探し出しました。狼やイヌワシの危険から救い出したのです。昔からこの場面は羊飼いが小さな羊を肩車にして連れ帰っているように描かれていますから、きっと足に怪我もしていたのでしょう。これはいい子の九十九匹を野原に残してでも、また羊飼い自身も我が身を危険に晒してでも、このどうしようもない一匹の羊を探しだす神の愛を描き出した譬え話として知られています。
まじめに言うことを守っていた、いわゆる良い子の九十九匹の羊たちと、軽率で決まり事を守らないで群れを離れた、どうしようもない一匹の羊とではどちらが良い評価を貰えるかは言うまでもありません。たった一匹のために九十九匹を野原に残して命懸けで探し回る羊飼いですが、まじめな大多数の羊たちと愚かでやんちゃなたった一匹の羊とを比較し評価すれば、どう考えてもこの行動は腑に落ちません。自業自得ではないですか。リスクを考えても割に合いません。羊飼いや100分の99であるまじめな羊たちに、100分の1に過ぎない一匹の羊のために何事か起こったなら、どうしますか。この一匹を探す行為は場合によっては非常識だと非難されるかもしれません。まさに非合理的です。
そうです、これは人間の目には非常識に映るでしょう。しかし、神の常識は人間の非常識かもしれません。神の目にはこの一匹はたった100分の1の価値でしかないのではありません。残りの九十九匹と変わらない、かけがえのない一匹なのです。この一匹が居なければ百匹の共同体は成立しない、なくてはならない一匹です。だからこそ命懸けでその一匹を探し出すのです。わたしたちは価値あるものを愛します。しかし、それ自身の持っている価値云々に拘わらず、神が愛するがゆえにそのものは価値あるものとなるのです。
ここには人間を成果や業績、できの良し悪し、能力の高さや低さなどでは評価も判断もしない、まったく別の人間の見方、人間観、価値観があることが示されています。

大学生になったのだから、大学院生になったのだから、そして神学生になったのだから、どうかたくさんの知識を学びとってください。そのために十二万冊の蔵書を持つ図書館も利用してください。昨年最も多く図書を借り出した4年生は一年間に127冊も利用したのです。ネットワークを通じて他所の大学の図書館も利用できます。知識を広めてください。教室で、また実習に出て様々な技術を修得してください。
わたしたちの大学のキャッチコピーの一つに「誰かの役に立ちたい。その"想い"をカタチに」というのがあります。皆さんの胸の奥にある、誰かの役に立ちたい、分野は様々であれヒューマンケア、他者援助の専門職になりたい、そういう生き方を身に着けたいという思いがきっとあるでしょう。その思いが思いのままにとどまるのではなく、具体的な形をとれるように、勉学に励んでください。今の日本と世界はそういう人を真に必要としています。そういう人が一人でも多く出てくれたらと心から願わずにはいられません。
そして、そのような知識と技術を身に付けるとともに、最初に申し上げた、それらを用いてどう生きるか、だれと共に生きるか、どこで生きるか、そういう生き方をする自分自身は一体何者か・・といった問いへの答えを、どうぞ時間をかけて見つけていってください。お仕着せの答えはありません。自分自身に問い、仲間と共に問い、神の前で問い・・、そうしてあなたならではの答えを見つけていってください。90人いれば、90の物語があるはずです。100人いれば100通りの物語があることを期待しています。その答えを探し出し、その物語を紡ぎあげる丁寧な作業を一緒にしていきましょう。教職員はそういうあなたがたを全力で応援します。
そういう4年間のうえに神様の豊かな祝福と導きがありますように祈ります。
もう一度、入学おめでとう。アーメン

「ルターの愛した聖句 "生まれ、造られ、あたえられるもの" 」宮本 新 神学校専任講師

2017年5月

ヨハネによる福音書 1章13節

この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
教会などでは時折、会話の中で、「あの人は信仰をもっている」とか、「私は神や霊のようなものを信じる」とか、「信じない」といったります。人によっては、「よくわからないけれど、霊感がある方だと思う」とか、そんなことをいうかもしれません。それはそれとして、まったく違う角度から信仰について語っているのがルターでした。今日は宗教改革500年記念礼拝のひとつということですから、このルターと信仰にしぼって、お話したいと思います。

はじめに、ルターが信仰について述べている箇所があるので、紹介します。信仰についてたくさんのことを述べ、またたくさんの人達がルターの信仰について研究していますが、その中でもとりわけ私自身が、はっとさせられたところを皆さんにお分かちしたいと思います。ローマの信徒への手紙の序文で書かれた一部です。
「信仰とは、ある人々が信仰だと思い込んでいるような、人間の妄想や夢ではない。彼らは、生活の改善や善い行いがその結果として起こらないのを見ていて、それから信仰について多くを聞き、語ることができるようになると、誤りに陥って、こう言いだすのである。「信仰では十分ではない。正しい救われた者となるには、行いがなくてはならない」などと・・・彼らは福音を聞いても、そこからこぼれ落ち、各々自分の力で、『私は信じている』というひとつの思いを作り出す。彼らはそれを正しい信仰だと思い込むのである・・・しかし、信仰は私たちのうちにおける神の働きである。この働きが私たちを変え、私たちを神によって新しく生み出し、古いアダムを殺し、心、勇気、感覚およびあらゆる能力をもつ、まったく別の人へと私たちを造り変え、聖霊をもたらす・・・信仰とは神の恵みに対する、生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死んでもよいというほどの確信である・・・」(ルター『ロマ書序文』1522)。
私はこの文書を目にしたとき、おもわず二度見しました。いや、本当は二度見どころか、三度見、四度見て、「そうだったかなぁ」と自分の信仰についての考えを思い返す機会がありました。いろいろ考えましたが、こんなことを書くルターにとって、伝えたいことははっきりしていたと思います。自分の魂を支えるもの、命の根っこにあるもの、生きている意味がわからない、どうしていいかわからない、どこからやり直したらいいのかわからない、でも、「大丈夫」ということでした。気休めでいっているのでも、やせがまんでいっているのでもありません。本当に大丈夫、と思うから書いているのでしょう。
この大丈夫という言葉は、どこからくるのでしょう。たとえ未来が見えなくても、それでも希望をもって明日をむかえようとする勇気は、どこから来るのでしょうか。自分で仕方がない、もう無理だと思っていても、それでも思いを切り換え、よしもう一度やってもみようと、自分を奮い立たせる元気はどこから来るのでしょうか。若き日のルターは、こう言われていたのです。「そのために、もっとがんばりなさい。失敗するな。反省しなさい。そして努力しなさい。そうしたら、神の恵みはあなたを後押ししてくれるでしょう」。そう思うこともありそうですが、ルターははっきりと区別します。それが引用の冒頭の言葉になります。
「信仰とは、ある人々が信仰だと思い込んでいるような、人間の妄想や夢ではない」。
もはやその「信仰」とは、信仰を持っているとか持っていないとか、どこそこの信者とか、何年教会に通ったとか、どれだけ聖書を読んだとか、そういうレベルのことではなくて、ぶっつけ本番で、ありのままをいっているように思います。私たちがこうして生きているという事実は、何によって支えられ、何によって「本当によく生きた」といえるのか、人間の成り立ちを問う言葉になります。ある人は生んでくれた親を想うかもしれません。自分の恵まれた環境や親切な周囲の人々の存在に思いが至るかもしれません。自分に与えられた能力や才能に気付いたり、あるいは人一倍努力をしたり、苦労をした自分の足跡を思うものかもしれません。自分の心や意志を見つめ、性格や人格をどうにかしたいと思うことだってあるでしょう。全部ありえそうですが、ルターはそれらとは別のものがあることに気がついていたのだと思います。それがルターが引用し、今日朗読したヨハネ福音書でした。
「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」
ためしに、自分にむけてこの言葉をいってみてください。自分のしていること、歩んでいる道、今置かれている境遇で、自分に語りかえられたと想像してみてください。ひとつの実験みたいなものです。血によってでもなく、肉の欲によってでもなく、だれかれの欲によってでもなく、神によって生まれたものがある。そんな風に考えたことがあるでしょうか。そんなものが、自分に、私たちの世界にあると言いえるものでしょうか。ルターはこれに出会ったのではないでしょうか。そしてそれは、だれにでもある、というのが聖書のメッセージです。私たちは肉体をもって生まれ、人びとに囲まれ、よいことも悪いことも経験します。しんどいことがあります。つらいことがあります。ついついずるいことを考えたり、調子のいいことばかりいったりすることもあるかもしれません。そうして自分を生かしてみると、この世界は自分や人々の願いや思惑だけで動いているかのように振る舞うときがあります。そこでは、自分の人生は自分で切り開き、夢は描くもの、希望はつかむもの、と子どもから大人まで信じて切っているのかもしれません。それをきれいに切り分けて捨て去る必要があるのか、できるものなのか、私にもわかりません。しかし大事なところで、心のどこかでつじつまがあわなくなる思いをすることがあります。違和感のようなものです。それをごまかすこともできます。素通りもできます。でもどちらもしなくて済む、といのが、この聖句です。

「生まれ、造られ、与えられる」。そこから見つめなおしてみるのです。それが聖書の視点だと私は思います。今日の讃美歌の作者水野源三も、ここから歩みなおした一人だったのではないでしょうか。「なんのために生きるのわからないとき」、「行き先がわからなくなる道を進むとき」、「だれかと共に生きる理由を見失ったとき」、自分に与えられている言葉があることに気が付いたのではないでしょうか。人は何をするか、何をしたいか以前に、何によって生まれ、だれに造られたものであるかをきちんと知ることは大切なことのように思います。何がほしいのか、何になりたいのか以上に、自分に何が与えられていて、何を託せられているかを知っておくことは、時に大切な一歩を踏み出す力になるのだと思います。信仰とはそのようなことを考えさせる言葉です。
主が共におられるとは、これに気が付くことだと思います。これにひとり手をあわせ、待ち望むことだと思います。それはだれにでもある。わたしにも、あなたにも。そんな証しを伝えてくれている讃美歌だと思い、ご一緒に歌いました。だから今日も生きていきたいと思います。ひとりではだめです。主と共に、隣人と共にです。アーメン。

「永遠の楽しみ 」ジェームス・サック 教授

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詩篇 84編1~4,10節

(指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。)
万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。
主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
神よ、わたしたちが盾とする人を御覧になり/あなたが油注がれた人を顧みてください。
最近、永遠について考える機会が与えられました。5月1日に私の義理の母ミリアムが100歳になりました。並外れた女性で、まだ自立した生活をしています。ミリアムはクリスチャン・ホームで育てられました。夫や息子二人は牧師です。とても謙虚な女性です。本人は自分の成功は神様のおかげだといつも言っています。
彼女は99歳までほとんどの食事を自分で調理し、たくさんの来客をもてなしました。頻繁ではありませんが、去年まで自動車の運転も続けていました。今でも毎日エクササイズ・クラスに出席しています。去年まではクラスリーダーが不在の際は、ミリアムがリーダーの役割をしました。
ミリアムは6人姉妹の末っ子でした。お姉さんたちはピアノ・レッスンを受けました。しかし、ミリアムがピアノを弾く年齢になったころには余裕がなく、ミリアムはレッスンを受けることができませんでした。だから彼女は姉たちの演奏を聴いて真似をし、そして楽譜なしでどんな曲でも弾けるようになりました。私だけでなく多くの人がミリアムからインスピレーションを受けました。
現在日本の100歳以上の人口は、6万6000人以上だそうです。ですから100歳まで生きることは珍しくなくなりましたが、それでも100歳は大した年齢ですね。
とにかく、私にとって彼女はスーパーウーマンのようです。しかし、最近は活力が衰え、杖や歩行器に頼るようになってきました。まもなくミリアムにもこの世の人生の終わりがやってくると考えています。アメリカに帰り彼女と一緒に一週間過ごすことによって、いろいろ考えさせられました。ミリアムも、私も、そして皆さんも同じように人生のエスカレーターに乗っていますので、私たちもやがて来る、私たちの人生の終わりを考えるべきでしょう。
ペテロの手紙二3章8節に次のような言葉があります。
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
永遠は、私たちが想像できないほど素晴らしい、恵まれたことです。天国は場所か、状況か、関係か分かりませんが、私たちは死んで神様の元に行くとき、神様の恵みを受けると信じています。私は特に急いでいるわけではありませんが、私にその時が来たときには、赦された罪人の私は神様に受け入れられることを信じます。
最後にヨハネによる福音書を読みたいと思います。
ヨハネによる福音書 11章25節

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
だから私は永遠に入ることを楽しみにしています。アーメン。

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