2020年9月25日 チャペルメッセージ

創立記念礼拝「「キリストという土台の上に」 立山忠浩

「キリストという土台の上に」(Ⅰコリント3:9~13)

ルーテル学院の黎明

 1909年9月27日に、九州熊本の、アメリカ人の宣教師であったスタイワルト宣教師宅で神学校の開校式が行われました。これが私たちのルーテル学院の111年の歴史の始まりです。その時の校長がブラウン宣教師でした。我々の構内にあるブラウン講堂の名称がこの初代校長に由来していることは言うまでもありません。
 開校式の礼拝で読まれた聖書の箇所はテモテへの手紙二、二章だったようですが、どんな説教内容だったのは記録がないので分かりません。ただ、この手紙の二章を読んで目に留まるのは、執筆者であるパウロが、愛する弟子であるテモテに対して「わたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちに委ねなさい」(2:2)と言っている言葉です。パウロの教えを委ねることのできる忠実な人たちを、この神学校で育てて行こうという思いが伝わって来るように感じます。
そしてさらに「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」(2:3)という言葉にも目が留まります。このようなみ言葉が読まれたことに、111年前の明治の時代に何十日もかけて船でやってきた宣教師たち、そして神学校で学び始めた学生たちの気概を感じるのです。
 このように、創立記念日を覚え礼拝を行っている目的の一つに、111年前の創立の歴史、この時代の学生と教職員の思いや気概を少しでも思い起こすことを挙げることができるでしょう。でもそれだけではないと思うのです。
 
歴史の変転
 先ほどのパウロの手紙、コリントの信徒への手紙一3章9節以下に記されたことが、そのことを私たちに教えてくれています。特に10節の言葉です。パウロはこう言いました。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と。コリントの教会を築いたのはパウロでした。最初の宣教者だったのです。私たちのルーテル学院の歴史で言えば、ブラウン校長がそれに当たるのでしょう。ブラウン校長が、神の恵みをいただいた恵みによって、熟練した建築家のようにルーテル学院の土台を据えたのです。
 パウロは次に「そして、他の人がその上に家を建てています」と続けて言います。これを私たちは今日、「そして、ブラウン校長に続く他の人たちが、その土台の上に家を建てています」と言い換えることができるでしょう。ブラウン宣教師の後を継いだ人たちが歴史の黎明期を紡ぎ、16年後の1925年には杉並区の鷺宮に神学校は移転しました。そして44年後の1969年にここの三鷹の地に移転し、1976年にはキリスト教社会福祉コースが設置され、2005年には臨床心理学科が開設されました。そして現在に至っています。ここまでの学院の歴史、そこに携わったすべての先達者たち、そして今の私たちも含めたすべての営みは、パウロの言葉を借りれば、「そして、他の人たちが初代の築いた土台の上に、今のルーテル学院を建てています」ということになるのだと私は思います。
 
イエス・キリストという土台
 しかしパウロはさらに続けて、私たちを惑わすようなことを書いていました。次に「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」と言うのです。私たちは、パウロがコリントの教会の土台を据えたと言っていることを確認したのですが、その次に、もう一つの土台があることを語っています。つまり、パウロは自分が土台を据えたんだと言いながら、その土台は実は、既に据えられていた土台の上に据えた土台なのだと、やや混乱したようなことを言っているのです。でも、この首を捻るようなことの中に、とても大切なことが語られているのではないかと私は思うのです。なぜなら、パウロが初めて教会の土台というものを据えたかのように思えるけれども、その土台はイエス・キリストという土台の上に置かれていることを決して忘れてはいけないと言っているからです。
 私たちの学校の土台を据えたのは確かにブラウン宣教師であり、一緒に尽力したすべての人たちです。でもそれはイエス・キリストという土台の上に据えられていることを忘れてはいけないのです。このイエス・キリストという土台とは、イエス・キリストの教えと言うことができるでしょう。学院の建学の精神もこれに行き着くのです。この礼拝堂で行われる礼拝も、きっとそれはこの学院が、そして私たち自身がキリストという土台の上に置かれていることを確認するためであろうし、宗教改革に歌われるルターの讃美歌450番の「力なる神は」も、そのことを力強く証しする歌なのです。
 
それぞれの建物を建てたとしても
 パウロはさらに「イエス・キリストという土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(3:11)とも言いました。土台というものは、その上に建物が建てられることによって姿を隠します。見えなくなり、いつしか忘れ去られ、無視することになる危うさを同時に秘めている。このことを忘れず、注意し、心を配る限り、この土台の上には色々な建物が建てられるのです。
手紙ではそれを「だれかが金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てる」(3:12)ことになると書いています。それぞれが自由に、自分の判断で家を建てる。ある者は地震や雨風を計算に入れ、それに対応した家を建てるはずです。それもどの地域に、どの時代に建てるかで異なって来る。それは私たちの学院でも同じだと思います。111年前は牧師を養成するだけの神学校でした。しかし熊本から東京に移転したことはその時代の空気を意識したからでしょう。鷺宮から三鷹に移転してさらに社会福祉、臨床心理という分野の働き人をも輩出する学院へと舵を切ったのです。その時代、その時々の社会の要請を感じ取り、指導者たちが一番相応しい判断をして来たのです。そのようにして建てられたものを私たちは感謝しなければなりません。
そしてこれらかもその時々の時代の中で、自由に、それぞれの建物を時の指導者たちを中心に建てて行くことになるでしょう。どんな建物を土台の上に据えたのか、どんな働き、どんな仕事をしたのか、それは「かの日にそれは明らかにされるのです」(3:13)とパウロは今日言っています。私たちは、いつの日か私たちの学院の働きが明らかにされ、神様の祝福に与るに違いないことを信じ、精一杯の建物をこれからもここにいるみんなで築き挙げて行きたいのです。
そのためにも、私たちのこのルーテル学院が、イエス・キリストという既に据えられている土台の上に歴史を積み上げて行くことを心に刻み、大切にして行きたいのです。



2020月9月25日
日本ルーテル神学校 校長
立山 忠浩

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