2020年9月30日 チャペルメッセージ

前期卒業記念礼拝「愛の教え」石居基夫

卒業おめでとうございます

2020年度前期、お二人が卒業されます。この日を迎えられたこと、心から祝いたいと思いますし、喜びを持って送り出したいと思います。
 
今年は、特に新型ウィルスの影響のため前期全ての授業が遠隔授業となった中で、最後の単位履修をされることでした。お二人とも、昨年度までにほぼ単位は取っておられたようですから、最後の履修にそれほど困難もなかったかと思いますけれど、それでもキャンパスで学生同士、また教職員と会うこともできない中で、卒業に向けてご自分を整えていかなければならなかったわけですから、ご苦労もあったことでしょう。
 
大学時代というのは、人生の中でそんなに長い時間ではない。振り返ってみて、いかがでしょう。あっという間だったでしょう。しかし、社会に出て、自立していく歩みの途上に学生として将来に向けて様々な学びをされたことと思います。でも、それ以上に、この時間の中で見たり聞いたり、あるいは読んだりしたこと、ここで学友、先輩後輩、教職員と出会ったこと、経験したことが、きっとたくさんあったと思う。得難いものです。今はその全てに気がつかないでいるかもしれませんが、ここで過ごされたことは、大きな財産としてお二人の人生の中にその実りが示されてくることと思う。
 
実際、たくさんの卒業生たちが、いろいろな働きをしている。今、卒業生たちがこの困難な中で対人援助の働きで悩みながら、葛藤しながら必要な支援の手として働かれている。福祉や心理の仕事につくばかりではありません、社会人として、あるいは家庭で家族を守りながら、それぞれにご自分の人生を生きていかれている。その多くの方が、このルーテルでの繋がりを大事に思い、そこで得られたものに励まされて押し出されるようにして、生き生きと働いている。そういう様子を、メールで、あるいはS N Sなどでいくつも耳にしています。ですから、こうして今日お二人の卒業生を送り出すと、ここで過ごされたことを、これからどのように生かしてくださるのだろうと、ワクワクします。
この前期、私たちは新型のウィルス感染によって本当に大切な時間を奪われたように思います。でも、この経験もまた、私たちのうちに確かに刻まれています。例えば、私たちはこの状況の中で改めていのちを守るということについていろいろなことを考えさせられ、またその目的のために生活を変えさせられている。こんな経験は滅多にないでしょう。何を大切にしていくべきなのかを、皆が改めて見つめ直しています。世界中でいろいろな歪みが吹き出して、苦しみの中から声が上がっています。今、何を感じているか。何を受け取っているのか。何を考え、どのように私たちは自分たちがこれからの共に生きるということを作っていこうとしているのだろうか。
 
まず、ソーシャルディスタンス。距離を保つこと。もちろんここでは飛沫感染、接触の感染が考えられているのですけれども、このソーシャルディスタンスにおいて一人ひとりのいのちが守られるということを学んでいる。適切な距離があるということでしょう。しばしばそうした距離を取ることができないで、暴力的な支配がおこったり、甘えや依存が生まれたりする。そうして一人ひとりの尊厳が汚され、犯されてきたのかもしれない。
私たちは誰もが「尊厳ある一人」であるということのかけがえのなさを、適切な距離をおくことの中で守っていくべきことを知らなければなりません。
しかし、いったん感染が明らかになってもたらされる隔離がどれほど私たちの命を蝕むかということも見させられています。私たちは本来、助け合う、支え合う、触れ合う、つながり合う、そうして命をつないでいる。なのに、この現代はそうしたつながりが断ち切られていないか。誰かを排除し、差別をしていないか。このウィルス禍の中では、特にも隔離されることが起こりますが、繋がりが断たれ、失われる現代の深い闇を象徴するかのようです。病院や施設にあると面会できない。そればかりではなくて、社会の中では外に出ることができなくて、孤立していく方々がたくさんある。皆が感じてきたように、大事なつながりが、断ち切られて、私たちはどうしようもない息苦しさを感じている。
 
もう一度、私たちは何を大切にするべきなのか、深く考え、私たち自身の新しい生き方を作っていかなければならないのだと思う。
 
聖書の箇所はヨハネ福音書15章からです。実はこの箇所は、イエスさまが十字架におかかりになる前に、弟子たち最後の晩餐の席で語られた告別の説教です。まあ、弟子たちと直接にお話しになられる一番最後の言葉です。14章から16章までがその説教の記録になっています。そして、ここは全体を通して、言うなれば「愛の教え」が語られている。互いに愛し合うように。互いに支え合うように。互いに足を洗い合うようにと繰り返して語られている。これらの言葉に押し出されて、実は2000年のキリスト教の歴史は、たくさんの働きを作ってきました。
 
人間は、本当に大切な繋がり、支え合う、助け合う、そういう繋がりを生きるはずのものなのに、そのつながりを断ち切って、ある人たちを置いてきぼりにしたり、追い出したりして 力ある人たちが自分たちのことだけを考えて、いわゆる弱者と呼ばれる人を生み出してきたでしょう。そうした社会の中で、貧しさ、病、障害、あるいはただ女性であるということでも差別されてきたのです。その苦しみの中にある人たちと共に生きるということを聖書はいつでも考えるように人々を促し、そして実践するように教えてきた。それは愛の教えです。実際に、日本では16世紀に最初の宣教師が来ますが、その一番最初の時から、教会は信仰を伝えることと同時に、社会の中の困窮する人たちのために取り組んできたのです。病院が建てられ、あるいは孤児のための施設が作られる。障がいを持った人たちの施設や高齢者の施設、女子教育など、先駆的な働きを教会がしてくる。
その多くの実践者は、聖書の「愛の教え」に押し出されてきたと言って良いと思う。イエスを見て、この人に従う、このお方と生きる生き方として、社会の中で困窮する人々のために働いていかれた。
 
でも、この「愛の教え」の、一番大事なところは、互いに愛しあいなさいという命令ではありません。もちろんそれも大切ですけれど、その直前、「わたしがあなたがたを愛したように」というところです。そして、ここにこそ、この聖書が伝えたい大事なメッセージがある。あなた方は愛されている。大事なものとされているということです。
この大学が、このチャペルが、学んでくださった皆さんにどうしてもお伝えしたいのもそのことです。どんな時にもあなたは一人きりではありません。神の恵みはあなたを決して見捨てない。一人ひとりが大事なのです。
 
イエスは、もう弟子たちの直接会うことのできなくなるというそのときに、その遥かなるディスタンスの中であっても、あなた方はわたしにつながっているように、わたしのもとに止まるようにと繰り返されているのです。そこには、目に見える形でつながるということではないけれど、決してあなたを、あなた方とのつながりをわたしは離さないというイエスからの宣言がある。わたしはあなた方を見捨てない、離さない、一人にしない。つまり、「愛の教え」は「愛しなさい」という教えではなく、あなたは愛されている。という教えです。だから、この言葉が、愛の見えない世界の中に新しい実践を生み出し、新しい社会を切り開いてきたと思う。
 
いよいよ卒業、新しい挑戦が始まります。ただ、専門の知識も実践の力も、すぐに生かされるといいけれど、本当に役立てられるのは卒業して、これから社会にでた時からの経験の中で、ここで学んだ自ら問題に取り組む力が、積み重ねられていくところで初めて確かになってくることだと思う。
いつの時代もそうですけれど、厳しい時をきっと経験される。順調に進んでいくことができないこともあるかもしれません。でも、忘れないでいただきたい。この聖書の言葉。愛の教えは、「あなたは愛されている」ということです。あなたは、本当にかけがえのない存在だから、生きるように。共に生きるように、さあ、立ち上がろう。そういう言葉があり、そういう恵みと助けの手があなたに向けられているということです。
 
この大学は、いつでもお二人をそして全ての在学生、卒業生の歩みを応援しています。いつでも訪ねてきてください。そして、それぞれの働き、その実りを、悩みや葛藤と共に、また教えてください。それから、後輩の力になるように話してください。私たちは、その声を待っていますし、そして、いつでもお二人のために祈っています。
 
卒業、おめでとう。



2020年9月30日
ルーテル学院大学学長 石居基夫

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