2020年10月30日 チャペルメッセージ

宗教改革記念礼拝「宗教改革のこころ」江口再起

「宗教改革のこころ」(ロマ1:16-17)

1. 10月31日は、最近では「ハロウィン」の日として有名です。このハロウィンは十数年前まで、日本ではほとんど知られていませんでしたが、最近では企業の商売がらみの仕掛けで、町の中ではけっこうにぎわっています。さて、それはともかく、このハロウィンの元々の由来は、昔のヨーロッパのケルト民族の祭りで、日本のお盆に当たる日、つまり死んだ人の霊を祭る「死者の日」でした。それが、やがてキリスト教の習慣の中にも取り入れられ、キリスト教の行事の一つとなりました。「万霊節」と呼ばれ、天に召された人をしのぶ日です。

さて、今日、私が皆さんにお話ししたいと思っている10月31日は、この万霊節にも関係しますが、この10月31日という日付は、キリスト教にとりまた特別な日なのです。と言うのは今から約500年前、1517年の10月31日、あのマルティン・ルターによって、いわゆる「宗教改革運動」がはじまった日、宗教改革記念日だからです。この10月31日、当時、中世末のドイツですが、この万霊節の日、その地方の領主が教会で、昔の死んだ聖人たちにちなんだ様々の宝物を民衆に特別に展示する日でした。そして、その日には、「免罪符」という、教会発行の、それを買うと天国に行けるという、ありがたい「お守り」のようなものも売り出されました。これを買うと、死んだ後、天国に行けるというのですが、人々はわれもわれもと、その免罪符を買いもとめたのです。

お金で天国行の切符、つまり「救い」が買える。つまり、結局、すべては「お金」だ。しかし、こうした事に対して、当時、まったく無名だった若き一人の修道士、すなわちそれがマルティン・ルターですが、そのルターがこうした免罪符に対して疑問をいだき、そのことをいわゆる「95カ条」という文章にして発表したのです。これが1517年10月31日の出来事、すなわち宗教改革運動のはじまりです。

お金次第で天国へ行ける、救いをお金で買うことができる、結局、なんでもお金次第。それを教会がやっている!!これは教会の堕落ではないか、宗教の堕落ではないか。そこで、ルターが立ち上がったのです。正義の人ルター、ついに立ち上がる。もちろん、ルターについて、「正義の人」ルター、教会の堕落に対して立ち上がる。こういうルターについてのまとめ方も全く間違いではないのですが、しかし物事はもう少し、いや結構、複雑で深い。今日はそのもう少し深いところを考えてみたい、と思うのです。
 
2. なぜルターが立ち上がったのか?ルターが立ち上がったのは、単に教会の堕落に抗して正義の戦いに立ち上がった、という風に単純なことではなく、その背後にルターのもう少し複雑で深刻な「心の戦い」があったのです。つまり、ルターにとってこの宗教改革運動というのは、たんに「正義の戦い」ではない。と言うか、人間にとってそもそも「正義」とは何か、「義しい」とはどういうことか。このことを心の底から、ごまかすことなく問い続けた、それがルターの改革運動の本質なのです。心の底から、人間にとり義しいとは何か、その心の問い。そこが大切です。
さて、それはどういうことか?当時、若きルターは修道院で神につかえる修道士でした。そして、当然のことですが、修道院の中で、毎日「神は義しい、神は正義の方である」ということを聞かされていました。当たり前のことです。ところが、ルターはこの一見、当たり前とも思える、この「神は義しい」、つまり「神の正義」というこの言葉に、何か微妙なものを感じたのです。私たちなら、当たり前すぎて特別、心にとめ深く考えることもない、この「神の正義・神の義しさ」という、この言葉。しかし、ルターはそこに立ちどまってしまったのです。一つ一つの事柄を考えもしないで当たり前だという前に、そこをまじめに真剣に自分の問題として、心に問うたのです。
 
「神が義しい」とは、どういうことか?そこを本当に真剣に考えると、実はこうなる。神は義しい、するとその義しい神は当然我々人間にも義しい生き方を要求する。つまり、私たち人間もこの世の中で義しい生き方をしなければならない。しかし、どうだろうか?本当に毎日、我々は義しいことを心におもい、義しいことを実行できているだろうか!言うまでもなく、できていません。心の中では結構義しくないことを考えており、本当に義しいことなど、めったに行っていない自分を発見します。すると、どうか?そういう義しくはありえない「私」に対して、神はこわい顔をして怒っているはずです。そして怒った神が、私を裁く、私はもう天国に入れない。これは大変なことです。ルターは真剣でした。物事を「一般論」として、人ごととしていいかげんに考えるのでなく、自分の問題として考える。真剣でした。
つまり、神様は義しい。その義しい神が私を裁くにちがいない!そうルターは考えたのです。ルターは行き詰ってしまいました。出口なしです。
さて、そんなある日、ルターは修道院の「塔」の一室で聖書を読んでいました。ロマ1:17.先ほど読んだところです。とくにむずかしいことが書いてあるわけではない。こう書いてある《福音には、神の義が啓示されている》。しかし、この聖書の一句が、ルターの胸を打ったのです。つまり、こうゆうことです。「神の義しさは、“福音”、つまり幸せの中に現れる」そう、書いてある。ルターの目からウロコがおちました。今まで、ルターにとって「神の義しさは、福音どころか(大きな声では言えないが)“不幸”の中に現れる」と感じられていた。ところが、そうでないと聖書はいう。
どういうことか?ルターはこう思いました。私には、義しいことはできないが、恵み深い神様なら、そのあり余る義しさの中から、その義しさを少し分けて下さるのではないか、プレゼントして下さるのではないか。これこそ、私にとって「福音」、幸福なことではないか。無条件でともかく神が私に「義しさ・正義」をプレゼントして下さる。まさに《福音には、神の義が啓示されている》と聖書に書いてある通りです。
ルターは、そのことに気づいた時、本当に幸福な気持ちになりました。自分に対して「天国の門」が開いたように感じました。すべては恵み深い恵みの神が、義しさも救いも、天国行きの切符もプレゼントして下さる。
ルターの中に、神への大いなる安心感、信頼感が生まれ、それゆえ、ルターはもう自信をもって、当時の教会の様々の問題点を大胆に改革していく勇気がわき起りました。これが後年「宗教改革運動」といわれるものとなったのです。つまり、全てはルターの真剣な「心の戦い」から始まったのです。
 

3. さて、少し長くなりましたが、今日の話をまとめましょう。
一つは、宗教改革運動というか、ルターという人の一番肝心なことは、たんに教会の堕落に対して正義の戦いをしたということでなく、その前に、ルターという人の中に、真剣な「心の戦い」があった、ということです。
つまり、物事は、ひとまかせの「一般論」で考えるのでなく、大事な問題は、いつも自分の問題として、真剣に自分の心に問うということの大切さです。とくに、「宗教」とは、まさにそういうものなのです。そして、二つ目に、聖書が私たちに教えて下さる神とは、どこまでも私たち人間の味方だということです。いつも愛をもって、恵みをもって、すべてを私たちにプレゼントして下さる恵みの神、これが私たちの神さまです。


江口 再起
2020年10月28日

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