2020年11月25日 チャペルメッセージ

召天者記念礼拝「主の家に帰ろう」河田優

詩編23編
1【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 
2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 
3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 
4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 
5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 
6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

 
本日は先にこの世を去られた方たちを覚えて、召天者記念礼拝を行っています。
カトリック教会では、11月1日を諸聖人の日として定め、この日に聖人たちや殉教者たちを覚えてのミサを守り続けてきました。
宗教改革以降のプロテスタント教会では、全聖徒の日として先にこの世を去った信徒たちのために祈る日としています。
そして今日はルーテル学院でも、先に亡くなった私たちに関わりのある方たちを覚えて祈り、その生涯の向こう側に天国の希望を覚える礼拝を行っているのです。
 
さて今日の箇所は「主は飼い」の言葉で始まります。これは主なる神様が羊飼いで、わたしがその世話を受ける羊だということです。
「羊の習性」を調べてみると、第一に、羊は臆病で弱い存在です。群れをはぐれてしまった羊を捕まえようとも、羊は不安と恐怖心で逃げてばかりでなかなか捕まらないそうです。
第二に、迷いやすい。目が悪いということもありますが、実際,羊は羊飼いに連れられて毎日行き来している道を自分では行きも帰りもできず,すぐ迷ってしまうそうです。こんな方向感覚の悪い動物は他にいません。
 
羊の姿を考えると、それはまさに私たちの姿と言えるでしょう。臆病で、道に迷ってばかり。誰かに助けてもらえなければ、生きてさえいけないちっぽけな存在です。私もそうです。みなさんもそうです。
羊が羊飼いによって養われ、命を守ってもらわないと生きていけないように、私たちも神様のお守りと導きがないと生きて行くことさえできません。
 
今回の聖書箇所のように神様は聖書を通して、私たち人間とご自分との関係を、何度も羊と羊飼いの関わりの内に説明してきましたが、そのことは、やがて大牧者イエス・キリストによって実現します。私たちはこの羊飼いよって導かれる羊なのです。
 
確かにその通り、主イエスはヨハネの福音書10章14, 15節で、
14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 
15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 と告げています。
ここに書いてあるとおり、イエスは私たち一人一人のことをご存じであり、私たちのためならばご自分の命を投げ出してくださる羊飼いなのです。
 
さて、詩編23編に戻りましょう。
4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
 
詩編の作者は、この前の3節まで自分の羊飼いのことを指して「主」と呼んでいました。それは信仰の告白です。でも、この4節から急に「あなた」と呼ぶようになるのです。
それは、なぜか。
詩編の作者は、ついそう呼んでしまったのか?あるいはそのように言わざるを得なかったのか?いずれにしても、私はここに救いをみます。
羊飼いとは確かに主である、でもその主とは誰かにとっての主ではなく、私にとって「あなた」と呼べる存在としての主なのです。
 
死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。
「死の陰の谷」とは、元来は「暗やみの谷」を意味します。先が読めない闇、出口が見えない状況、だれも助けることのできない孤独の世界です。
「死の影の谷を行く」それはまさに死を目前にした状況はそのようなものであるでしょう。
しかし、詩編の作者はその時にあっても「私は恐れない」と言います。
そして力強く語ります。なぜなら「あなたがわたしと共にいてくださる。」からです。
 
他ならない「あなたが一緒だから」。私たちに命を与えてくださる「あなたが一緒だから」。
主なる神様は、この一匹のヒツジにしか過ぎないちっぽけな私にとって「あなた」と呼べる存在になってくださったのです。
そしてその救いはイエスキリストにおいて実現され、イエスは、羊である私たちにとって、あなたは私の羊飼い、「主はわが牧人」と呼ばれる存在になってくださったのです。
 
最後にこの聖句は、私たちと「あなた」と呼べる主が共に行き着くのは、「食卓が整えられた」主の家であり、私たちは生涯その家に留まることとなると告げています。
 
本日は先に天に召された方たちを覚えての礼拝を行っています。今この方たちはどこにいるのか、どのように過ごしているのか、私たちはまだ知ることはできません。だからこそ聖書の言葉に耳を傾けていきたいと思います。
そこには、主の家に住む姿、そして主の食卓を共に囲む姿が見えてきます。
 
私たちも今、この世における礼拝という形で主の家に集っています。また主の恵みを分かち合うという意味で今も主の食卓の席に招かれています。それと同じように先にこの世を旅立った人たちも今、同じ主の家にいて、目には見えないけれど共に同じ食卓を囲み主の恵みに与っていること、その聖書の言葉を大切に受け止めていきたいのです。
 
この世の生涯を超えて、主は皆さん一人一人をご自分の家に招かれています。
あなたを招き、あなたと共に歩む主に信頼した歩みに心を傾けてみましょう。そして主に守られつつ、先に天に召された方たちとの再会を希望とし、この私に与えられた日々を歩み通してまいりましょう。


2020年11月4日
チャプレン 河田優

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