2021年5月14日 チャペルメッセージ

キリスト教月間礼拝「祈りと統合」上村敏文

コリントの信徒への手紙一 9:19-23
ドイツの哲学者ハイデッガーは、日本から来た留学生を通して、親鸞の思想に触れます。そして、その弟子の唯円が執筆したといわれている歎異抄を読んで、「もし十年前にこんな素晴らしい教えが東洋にあったことを知ったら、日本語を学びこの聖者(親鸞)の話を聞いて、その教えを世界中にひろめることを生きがいにしたであろう」とまで述べています。日本からの留学生とは、西田幾多郎の教え子であった三木清、田辺元など30名近くも哲学を学びに来ていたのですが、「この日本の素晴らしい思想(宗教)を学ぼうともしないのは、なんということだ」と、嘆いています。更には、「日本は戦いに敗けて、今後は文化国家として、世界文化に貢献するといっているが、(中略)なんにも要らないから聖人(親鸞)のみ教えの匂いのある人間になってほしい」とまで述べていたそうです。
さて、この礼拝メッセージをしたためているとき、遺伝子工学の大家である村上和雄氏が、天に召されたという知らせが入りました。「祈り」を科学の世界から追究され、終生研究を続けられた科学者です。多くの著書の一つである『奇跡を呼ぶ100万回の祈り』の中で、「祈る力は、すべてを変える」と、繰り返し指摘されておられます。その他多くの著作や講演、そして白鳥哲氏により映画化された「祈り サムシンググレートとの対話」など、積極的に科学者の立場から、「祈り」の力について発信をされていらっしゃいました。とても穏やかな先生で、私が学生の頃に、特に何か大事なことを教えていただいたということではありませんでしたが、今でもその優しい眼差しと先生を包んでいる「愛」の空気は、ハイデッガーのいうとこのの「匂い」であったかもしれません。
 
サムシンググレート
 
あえて、神という用語は使わずに、「何か偉大な存在」として、宗教関係者にはおそらくよく知られている用語を発信され、そして、特に「祈り」がいかに偉大な力をもっているかを、科学的にも実証実験されておられました。例えば、アメリカの西海岸の人が、東海岸の病院に入院されている方のことを祈り続けることによって、明らかに祈らない場合との相違があることをお話になっておられました。先ほど紹介した、『奇跡を呼ぶ100万回の祈り』の中においても、「祈り」ある行動が奇跡を起こすことを強調されておられます。
 
ルーテル教会では、日曜日の礼拝において、冒頭部分において、「思いと言葉と行いとによって多くに罪を行いました」と、唱えます。言葉や行いはわかるけど、目には見えない「思い」まで言及することに対して、初めて礼拝に出させていただいたとき、私はとても驚くとともに、これは素晴らしいことであると思いました。
 
デカルトは「われ思うゆえにわれあり」と、有名な言葉を残していますが、「思い」ということは、人間にとってとても重要なファクターであるということを、毎週のように、いや日々、そして瞬間、瞬間に思わざるをえません。そして、他者に対して、怒りやそねみ、絶望など、私たちはいろいろなネガティブな感情をもってしまいがちです。そのことを「罪」として、礼拝の冒頭に「反省」(悔悟)する機会が与えられていることは、本当に恵みだと思うのです。
 
その一方で、「祈り」とは、通常はポジティブな内的な思いですが、私は、まだクリスチャンになりたてのころは、牧師先生が「祈りましょう」とおっしゃると、心の中で、「祈り」が一体どれだけ力をもっているのだろうかと、いぶかっていた時期もあります。しかし、最近では、特にこの特に新型コロナの猛威の中において、遠隔授業や、ズームなど、直接に人と接する機会が少なくなったがゆえに、逆説的ですが、この「祈り」のすばらしさ、尊さに感涙せざるを得ないのです。今、ここに見えない人のために、もしかしたら相手は全く知らないかもしれないが、真剣に「思い」、「祈る」。この大きな恵みに感謝せざるをえません。そして、もしかしたら、私、そしてここに集う皆さんのために、真剣に祈ってくださる誰かがいるかもしれません。いや、必ず祈ってくださる方がいらっしゃるでしょう。
 
本日の聖書箇所の第一コリントの信徒への手紙の中において、パウロは、「わたしは、だれに対しても自由なものですが、すべての人の奴隷になりました」と言っています。ギリシャという異文化社会の中で、イエス様のことを伝えることは並大抵のことではなかったことでしょう。「ユダヤ人にはユダヤ人のように」、「律法に支配されている人には、律法に支配されているように」、「律法をもたない人には律法をもたない人のように」、そして「弱い人には弱い人のように」なったと言っています。
 
私が、この大学にお招きを受けたきっかけは、新設科目として「日本の宗教風土」を教えてほしいということでした。当時は、まだ他宗教との対話、特に神道とキリスト教はまさに水と油のような関係でしたが、その中において、キリスト教をベースとする大学において、神道を中心とする「日本宗教」を講義することはとても勇気のいることでもありました。しかし、柴田千頭男名誉教授は、常に、本日の聖書箇所を引用されて、伊勢神宮、春日大社、高野山、比叡山などなどを訪問して対話を重ねるにあたって、繰り返し大きな声で、本日お読みいただいた箇所を繰り返されておられました。村上和雄先生は、神道の一つに分類される天理教の信徒でいらっしゃいましたが、「祈り」という点において、キリスト教と共通することが多くありました。実は、神道においてはこの「祈り」がすべてであり、教義もなく、また元来は神殿さえもなく、本当になにもないといっても過言ではありません。このフィールドワークに同行した韓国からのクリスチャンの留学生が、「天理教の空間にいると、韓国の教会を思い出す」と、言っていたことを思い出します。
 
私は、これからの世界は、宗教、教派などの相違を超越して、力と祈りを合わせる(統合)時代です。比叡山における宗教者の集まりは、そして「祈り」は、決して無為のものではありません。さまざまな宗教が、力を合わせて、日々、祈ることがこれからの地球には求められているのだと確信しております。

2021年4月21日
キリスト教人間学コース
上村敏文

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